平荘町山角の報恩寺(写真右)の境内の奥にみごとな4基の五輪塔(県指定文化財)がある。この一基から金銅製の骨臓器がみつかった。
五輪塔は、この寺の僧の墓塔であり、作者は、大和の名工・伊行恒(いのゆきつね)であることがわかった。
行恒は、大和(奈良)を根拠地としながら摂津の御影を中心にした活動で知られている。
伊派の石工たちが深く関係していたのが、奈良・西大寺であった。
報恩寺は、もともとは西大寺の律宗寺院であったらしい。
鎌倉末期には西大寺流の律宗が、ここ加古川の地にも伸びていたと考えられる。
話を常楽寺(加古川市加古川町大野)にもどしたい。
『播磨鑑』をベースににして書かれたのだろうが、『大野史誌』に、次のような記述がある。
「(常楽寺は)正嘉二年(1258)・・・暴風雨のため堂宇は破壊された・・・。小野文観(1278~1357)によって復興され・・・」
また、「寺伝では、西大寺の末寺であったとの伝承はない。しかし、境内には、五輪塔・宝塔・十三重の塔・宝篋印塔等があるが、これらはすべて、鎌倉末期から室町時代初期にかけてのもので、様式から見て西大寺系(伊派)であろうと想像される」とある。
ここで少し文観の説明をしておきたい。(「ウィキペディア」より抜粋)
《小野文観》
鎌倉時代から南北朝時代の僧。
西大寺に属する播磨の国、常楽寺(兵庫県加古川市)などで真言律を学ぶ。
後醍醐天皇に重用されて醍醐寺の座主となる。
鎌倉幕府の調伏(まじないなどにより人を呪い殺すこと)などを行っていたことが発覚し、元徳二年(1331)逮捕され硫黄島へ流罪となる。
「建武の新政」後、復活した。楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。
播磨地方・伊派・西大寺・文観そして常楽寺が結びつきそうである。
詳しくは知らない。ご存知の方はお教え願いたい。
*写真上:報恩寺(平荘町山角)、写真下:常樂寺の十三重の層塔、『加古川市史(第一巻)』・『大野史誌』参照