ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:本陣

2007-02-07 08:26:58 |  ・加古川市加古川町

8e7d83b3     宿場を代表する施設は、なんといっても「本陣」である。

  本陣は、参勤交代の大名の宿舎で、本陣が整備されたのは、参勤交代が制度化された寛永期以降のことである。

  加古川宿の本陣は、寺家町に置かれた。

  場所は、『加古川市史(第五巻)』に、加古川宿絵図(慶応元・1865)があるので参考になる。この図は、その解読図(部分)である。

  「宿絵図」には常住寺・最上寺が描かれているが、これらの寺は現在、場所を変えている。

  幸い、光念寺が今も絵図の位置にあるので、本陣のあった場所は想像していただけると思う。

  本陣は、光念寺のすぐ北の寺家町の西国街道に沿ってあった。

  寺家町組大庄屋の中谷家が代々つとめていた。

  史料で確かめることできるのは、大坂町奉行(八田五郎左衛門)の日記に「寛延二年(1749)本陣・寺家町中谷与惣左衛門宅に滞在した」と記しているのが最初である。

  また、毛利家の大名行列の記録「行程記」(宝暦の頃作成と推定される)には、「加古川宿の本陣は、敷地面積は間口・三十間、奥行・二十八間と広大であった」と記録している。

  しかし、中谷家が、いつの頃から寺家町組の大庄屋となったか。また、いつ本陣になったかについては分からない。

  文政9年(1826)3月10日(旧暦、2月2日)、オランダ商館の医師・シーボルト一行が、江戸へ旅した途中、加古川宿の本陣に泊まっていたことは特筆すべきことだろう。

*『加古川市史(二・五巻)』参照、宿絵図は『加古川宿のスケッチ(阿木哲郎著)』のブックカバーの一部をお借りしました。

コメント
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