正之、玉田姓を名のる
細工所の外八ヶ村が姫路藩を離れて幕府の直轄になったのは元和三年(1617)のことでした。
以後、これら九ヶ村は天領でない時代もありましたが、幕府領・小田原領・一橋領として明治時代に至っています。
細工所は、これら9ヶ村の政治・経済の中心であり、その間玉田家が大庄屋を務めました。
前号で、玉田正行(修斉)について紹介しましたが、細工所大庄屋玉田家について『志方町誌』の記述をお借りし、説明を続けます。
(*文体を変え、一部加筆しています)
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玉田家は赤松の出で、正之はその妻・阿江氏(正之の妻・賀美は加古郡阿江阿江城主阿江三郎太夫の娘)の縁により一時飾磨郡玉田村に移り、その後永禄年間(1558~1569)に細工所へ来たために姓を玉田に改めました。
・・・略・・・・
細工所組大庄屋・玉田家
正之の長男・正次は元和元年に父の業を継いで大庄屋となりましたが、病のため弟の直義に譲りました。
そして、直義からその長男正信(修斉)に大庄屋を譲られています。
この正行が前号で紹介したように野尻新村の開発に当たり、細工所の経営は後に弟の成紹に譲っています。
一方、正信の三男・定好は、細工所で別に玉田家を起こし、その後玉田家は、代々重太郎を称し明治維新まで大庄屋を務めました。
明治時代になり、明治23年の新町村制発布と共に玉田家の範威は東志方村の初代の村長として明治31年9月20日、44才で没するまで在職しました。
玉田家は、東志方の村々、とりわけ細工所村を語る時、抜かすことはできません。
現在、大庄屋を務めた正之・正行・定義、そして明治時代初代東志方村の村長を務めた範威へと続いた玉田家は細工所では続いていません。
*写真上:玉田正之の墓標
下:玉田定好の墓標
なお、正信(修斉)の墓標は野尻にあります。