ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町探訪(186):細工所⑲、細工所大庄屋・玉田家

2011-12-22 09:02:50 |  ・加古川市東志方

    正之、玉田姓を名のる

014細工所の外八ヶ村が姫路藩を離れて幕府の直轄になったのは元和三年(1617)ことでした。

以後、これら九ヶ村は天領でない時代もありましたが、幕府領・小田原領・一橋領として明治時代に至っています。

細工所は、これら9ヶ村の政治・経済の中心であり、その間玉田家が大庄屋を務めました。

前号で、玉田正行(修斉)について紹介しましたが、細工所大庄屋玉田家について『志方町誌』の記述をお借りし、説明を続けます。

(*文体を変え、一部加筆しています)

・・・・

玉田家は赤松の出で、正之はその妻・阿江氏(正之の妻・賀美は加古郡阿江阿江城主阿江三郎太夫の娘)の縁により一時飾磨郡玉田村に移り、その後永禄年間15581569に細工所へ来たために姓を玉田に改めました。

 ・・・略・・・・

    細工所組大庄屋・玉田家

013正之の長男・正次は元和元年に父の業を継いで大庄屋となりましたが、病のため弟の直義に譲りました。

そして、直義からその長男正信(修斉)に大庄屋を譲られています。

この正行が前号で紹介したように野尻新村の開発に当たり、細工所の経営は後に弟の成紹に譲っています。

一方、正信の三男・定好は、細工所で別に玉田家を起こし、その後玉田家は、代々重太郎を称し明治維新まで大庄屋を務めました。

明治時代になり、明治23年の新町村制発布と共に玉田家の範威は東志方村の初代の村長として明治31920日、44才で没するまで在職しました。

玉田家は、東志方の村々、とりわけ細工所村を語る時、抜かすことはできません。

現在、大庄屋を務めた正之・正行・定義、そして明治時代初代東志方村の村長を務めた範威へと続いた玉田家は細工所では続いていません。

*写真上:玉田正之の墓標

   下:玉田定好の墓標

    なお、正信(修斉)の墓標は野尻にあります。

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志方町を歩く(185):細工所⑱・玉田正信(修斎)

2011-12-21 00:00:24 |  ・加古川市東志方

野尻新村は、玉田正信(修斉・しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

玉田正信(修斉)・野尻開拓にささげた生涯

010玉田正信(修斉)について『志方町誌』の記述をお借りします。(文体を変え、一部加筆しています)

 ・・・

(野尻新村)の基礎を築いた人は玉田正信で、18年の歳月を費やしてつくり上げました。

正信は、幼名を太郎作といい通称重太夫と号しました。

元和六年(1620)三月五日、直義の長男として細工所に生まれました。

玉田家は、もともと赤松氏の一族で、正信の祖父・正之が永禄年間(155869)に飾西郡置塩庄玉田村から細工所に来て、医を業として、かたわら農業を営み、すでにその頃から大庄屋を務めていた名門でしでした。

・・・略・・・

彼が父に代って大庄屋の庄屋の職についたのは寛永の末ですから、その時には祖父はもう他界していました。

祖父が没したのは寛永六年(1629)で、正信の10才の時に当たります。

おそらく、父は体が弱く、また正信がその職に耐えるだけの器量があったからでしょう。

223才の時、大庄屋を継いでいます。

正保二年(1645)、正信26才の時、姫路藩主松平忠弘から野尻の開拓の命がくだりました。

 ・・・略・・・

正保の頃、細工所は姫路藩の時代でした。(以上『志方町誌』より)

    正信(修斉)野尻に眠る

開墾当時は、野尻新村は10町歩ばかりの村であったといわれています。

 正信(修斉)は元禄5年、野尻新村に小さな家を建て隠居しました。

そして、同12年、79才の生涯を野尻新田で閉じました。

まさに、野尻の開拓にささげた生涯でした。

彼は野尻に儒者・黙翁らとともに眠っています。

なお、玉田正信(修斉)については、「志方町を歩く(132)」でも紹介していますのでご覧ください。

*玉田正信(修斉)の位牌(細工所・安楽寺で祀られています)

なお、位牌の左の名前「栗」は、志方町竹中弥左衛門の娘で正信の妻です。彼に先立つ1年前(元禄11)に没しています。

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志方町を歩く(184):細工所⑰・桜

2011-12-20 08:13:58 |  ・加古川市東志方

Po20110416_0000_270年ほど前、城山に八十八ヶ所の霊場がつくられ、そこに十年ぐらいの桜の木を植えました。

安楽寺の桜は、世話人の方が「城山に関係の深い安楽寺にも」と、植えられた桜です。

ですから、現在の樹齢は80年余りと思われます。

その後、すくすくと育っていたのでしたが、高い枝が強風にあおられ、曲がり、ひび割れ、そして雨水が浸水し、一部が腐って枯れてしまいまいました。

低く横に伸びた枝は支柱に支えられています。

    安楽寺の桜

先日、安楽寺の近くのSさんが写真を送ってくださいました。

あまりにも見事な桜の写真です。

みなさんにも紹介します。

季節外れですが、「シリーズ・細工所」に取り上げました。

今年も残りすくなくなり、ますます寒さが厳しくなりますが、安楽寺の桜の写真を眺めながら春を思い、しばし忙しさと寒さを忘れることにしましょう。

安楽寺の境内の桜は、4月初めごろが見ごろで、10日ごろには散り始め、15日ごろにはすっかり花が散るそうです。

    陶淵明と玉田黙翁

桜の下で酒を誰かと飲んでみたいものです。

その時、柄にもなく次の陶淵明「漢詩」を思い浮かべます。

両人対酌(たいしゃく)すれば 山花(さんか)開く

一杯 一杯 復(また)一杯

我酔うて眠(ねむ)らんと欲す 卿且く(きみしばらく)去(さ)れ

明朝 意有らば 琴を抱いて来たれ

 細工所から出て、野尻新村を開拓した玉田修斉の孫の儒者・玉田黙翁(もくおう)を思い浮かべます。

黙翁は陶淵明(とうえんめい)の生活にあこがれを持ち学問にはげみました。

生活は、まさに陶淵明と重ね合わせることができる人生でした。

*写真:安楽寺の桜(S氏撮影)

 『志方郷(7号)』参照

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志方町を歩く(183):細工所⑯・厳しい生活でした

2011-12-19 08:19:01 |  ・加古川市東志方

189639fe村に調査で古文書が残されておれば、村の歴史は比較的容易に再現することができます。

が、志方町に関しては古文書類が残されている村は非常に少ないようです。

『志方町誌』も「・・・わずかに岡・東飯坂・行常・東中・山中・助永・西山を数えるだけである・・・」と記しています。

細工所も古文書類は今のところほとんど所在が分かりません。

そのため、「シリーズ・細工所」も、十分な細工所の紹介ができないまま、終わりそうです。

『加古川市史(第二巻)』に、「一橋藩徳川氏領明細帳」として、細工所の明細帳が紹介されていますから、取り上げておきます。

*(注)東志方の9ヶ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から一ツ橋領に組み込まれ幕末まで天領として続きました。

従って、「一橋藩徳川氏領明細帳」は、延享4年以降の数字です。

  細工所の明細帳から

   戸数116軒、村高約520石の村

村高 520石289合  41104.5歩 

   除地 3ヵ所42.3

戸数 116軒

人口 532人

牛  25疋

鉄砲 1挺

小物成(雑税)  金納

酒造株 1 酒造米高300石 冥加銀(その税金)が40匁5分

百姓持林 3ヵ所 752畝

余業 男 薪取り・草刈・縄俵こしらえ 

   女 木綿織

津出し  芝村まで2里・・加古川川下げ3里半・・高砂・・船出し

 上記の太字の数字を少し検討しておきます。

細工所は、村高(米の収穫)が520石289合の村です。

戸数が116軒ですから一軒当たり約4石845合となります。

ここから年貢が引かれたのですから、絶望的な生活ということになります。

牛の数は25疋ですから、4.64軒に一疋です。少ない。

これらの数字だけが生活の糧ではないのでしょうが、とにかく苦しい農民の姿が浮かんできます。

そのため、農業の合間には男は薪取り・草刈・縄俵こしらえに励み、女は木綿織に精を出したことが明細帳から知ることができます。

津出し(港からの荷物の積み出し)に関しては、「志方町(181)・細工所⑭」をご覧ください。

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志方町を歩く(182):細工所⑮・細工所野尻口の道標

2011-12-18 09:55:48 |  ・加古川市東志方

022昔、旅人は道標をたよりに旅を続けました。

現在、道標はその役目をすっかり終え、そこがかつての交通の要所であったことを語っているだけのようです。

     ここは交通の要所!

細工所の道標は、あまり大きな道標ではありません。

細工所から野尻へ行く十字路のすぐ東にあります。

四面とも地名があり、施主もあり、建立年代は嘉永五年(1852)壬子(みずのえね)五月とあります。

江戸時代も終わりの頃に建てられています。

  背面  すぐ 高砂 加古川

  右面  東 ありま道

  利右ヱ門

正面  北条た志ま  施主  利吉

           つま

 左面  ひめじ□みね  (*□不明)

いまでは近くに住む人だけがこの道標を知っておられるだけでしょう。

    昔の風景を想像してみましょう

嘉永五年の、このあたりの風景を想像してみたくなりました。

いま机上に、明治26年測量(明治38年修正)の地図があります。

嘉永五年から50年ばかりが過ぎた頃の地図です。

細工所の町並みは道路標識のあたりにまで伸びていません。

細工所をとおる高砂・北条線は明治18年に造らましたから、この道路も消してみます。

そうすると、道は北条から高砂に通じる細い(旧)北条街道で、あたり一面は水田でした。

近くに西川に架かる細工所橋がありますが、ここは橋ではなく、飛び石であったといいますから、荷車の往来もなく人以外では牛馬が、わずかに川をバシャバシャと渡る程度であったのでしょう。

西川は勿論素掘りでした。魚がいっぱいおり、夏にはホタルが湧くように飛び交ったといいます。

子どもたちの歓声があったことでしょう。

*写真:細工所野尻口の道標

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志方町を歩く(181):細工所⑭・伊能忠敬測量隊がゆく(2)

2011-12-17 07:35:04 |  ・加古川市東志方

加 西 道

前号の伊能測量隊一行の測量コース(前号の地図)を再度復習しておきます。

<加古川市史(第二巻)より>

「・・・法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。

・・・・」

測量隊のたどった細工所から平荘の養老()の河岸(かし・川の港)までの道は、昔は加西道とよばれていました。

この道は、また東志方の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でもあったのです。

二つの経済・生活圏

1_042いまの、志方町は志方町・西志方・東志方は一つの政治・経済圏をつくり、まとまりのある地域となっていますが、江戸時代は、今の西志方・志方が一つの政治・経済圏であり、東志方は、細工所を中心にした、他の一つの政治・経済圏をつくっていたと考えてよいようです。

江戸時代は原則として、物資は水を動き、人は陸を動きました。

東志方の生活物資は加西道を通り、加古川の養老()の河岸に集まりました。

伊能測量隊が通った道で運ばれた東志方の物資は養老()の河岸に運ばれたのです。

そして、高砂へ運ばれた物資は大坂・江戸など全国へと運ばれました。

もちろん、全国から高砂に集まった生活物資の一部は養老()に集まり、東志方へと運ばれました。

ということは、東志方の人々の経済圏は、今の志方・西志方ということではなく、目は岡・広尾、そして加古川の河岸に延びる地域に注がれていたようです。

ましてや、東志方の多くの村々は西志方・志方町が姫路藩に属していたのに対し、江戸時代の後半は一ツ橋藩の天領でした。

その上に、大藤山から延びた山塊が志方八幡神社のある宮山へと繋がり、途中志方大池で谷をつくるものの再び高畑へと続き、東志方と西志方・志方との間に山塊が塀のように立ちはだかっています。

 「志方はひとつ」といいたいのですが、もともと志方は二つの経済圏・生活圏から成たっていた地域と考えてよいようです。

*写真:写真中央の山塊の向こうが志方・西志方、手前が東志方(城山から撮影)

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志方町を歩く(180):細工所⑬・伊能忠敬測量隊がゆく(1)

2011-12-16 08:20:47 |  ・加古川市東志方

文化八年1811)、伊能忠敬の測量隊(別働隊)が細工所を測量しています。

もちろん、正確な日本地図の作成のためです。

まず、伊能忠敬の測量図で加西の坂本をお探しください。

測量隊は法華山のある坂本から二手に分かれ一隊は社から立杭方面の測量をしています。

そして、別働隊が三口から南下して、志方細工所方面の調査をしています。

この日は、晴天であったようです。

その様子を『加古川市史(二巻)』に見てみます。

  

   伊能忠敬測量隊(別働隊)、細工所を測量

D8a9f6fc「・・・伊能の測量は、主な街道の距離の測量をするかのように見えるが、正確な地図を作成するには実はそれよりも大切なのは、主な山・島で方位を測量すること、夜間に宿泊で行う天測によってその地点の緯度を算定することにあった。

・・・・・

(測量隊一行は)文化八年(1811)には法華山一乗寺のある坂本村の庄屋宅・百姓家に宿泊し、別働隊は三口から高砂道を南下して、大沢・細工所・同村安楽寺門前を通り、岡村字田中・下条・中才を通り、吉広・柏尾(以上志方町)・一本松新・小畑・西山・山角(以上加古川市平荘町)・小野・薬栗・見土呂を通り、滝野川(加古川のこと)を渡って国包(以上加古川市上荘町)にいたる。・・・」

水が温む35(旧暦)、伊能忠敬の測量隊一行は安楽寺門前を測量しています。

日程から推測して、昼ごろだったと思われます。

測量隊のたどった細工所から平荘の養老の河岸(かし・川の港)までの道は、昔は加西道とよばれていました。

養老の河岸を起点としたこの道は、細工所で北条街道とつながる4.1㎞の道でした。

加西郡と印南郡の一ツ橋領(大沢・細工所・野尻・岡・吉広・柏尾・高畑・大宗・行常)の各村から年貢を納めるための道でした。

また、この道は多くのものが加古川の河岸と志方の間を動いた大切な道でした。

広尾村:明治92月に吉村と柏村が合併して、お互いの一字をとり広尾村として誕生)

*図:伊能忠敬の地図(播磨部分)・・・赤い線が伊能測量隊の測量した行程

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志方町を歩く(179)・細工所⑫・志方東公園

2011-12-15 08:37:46 |  ・加古川市東志方

志方東公園(細工所字野尻谷)

026志方東公園は細工所から野尻に抜ける城山と七つ池に挟まれた所にある公園です。

いぜんに来たのは夏の終わりの頃でした。

吹く風の気持ちよかったのを覚えています。

その時は、子どもたちがアスレチックを楽しんでいました。

志方東公園には野球場もあります。

テニス場もあります。

野球場には照明灯も備えられています。

そして、バードウォッチングもできる公園です。

メジロ・ホオジロ・ウグイスなどがエサを啄むのを観察できます。

   

   志方東公園・昭和59年5月に開園

志方東公園は、昭和54年加古川市と合併の頃に計画され、昭和5951日に開園されました。

最近は「まち懇」の人たちの努力で桜が植樹され、春には桜の名所ともなっています。

また、このあたりは市内で唯一の「ギフ蝶」の生息地となっており、「ギフ蝶」との出会いがあるかもしれません。

先日(11月の終わりの頃)、志方東公園を紹介するために、孫と写真を撮りに出かけました。

日曜日の夕方でした。小春日和の一日でしたが、さすがに少し寒さを感じます。

子どもの声はありません。

でも、志方東公園は晩秋の燃えるような輝きの中でした。

遊具を独り占めにした孫(3才)は、大きな声ではしゃぎまわっていまます。

いきおいが少し過ぎたようです。

膝をすり少し赤くなりました。

でも、おお喜びで輪くぐりにチャレンジをしました。

桜の頃に訪ねてみませんか。弁当を持って。

*『志方郷(23)』参照

 写真、晩秋の志方東公園(夕方撮影)

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志方町を歩く(178):細工所⑪・モチの木がよくにあう

2011-12-14 08:19:50 |  ・加古川市東志方

今日の話題は、歴史でもありません。随筆でもありません。

駄文で、細工所を歩きながら見つけた「モチの木」の話です。

「志方町を歩く」に含めておきますが、読み飛ばしてください。

   モチの木

018いま「志方町を歩く」を書いていますが、志方町の前は「稲美町」を紹介していました。

その時、はじめて稲美町の町の木が「モチの木」(花はコスモス)であることを知りました。

次の「モチの木」説明は、『稲美町誌』からお借りしています。

・・・・常緑の高木で雌雄異株、雌株には深紅のかわいい実がすずなりに生え、大変美しいので植木として親しまれている。

多肉のなめらかな樹皮をもつ、たくましい木で、樹皮から「とりもち」をつくったのでこの名がある。

 同属のくろがねもちは、町内(稲美町)の山林に多数自生するので町木として愛育していくのにふさわしい。

 ・・・

以来、ブログの取材の途中で見つける「モチの木」は、私にとって親しみを感じる木となりました。

   細工所には、モチの木がよく似合う

最近、細工所をよく徘徊します。

特に旧北条街道沿いの大きな民家でよくモチの木をみかけます。

「もちの木」の密度からいえば稲美町より多いようです。

「モチの木のある家は、金モチになる」という縁起いい伝承があります。

そんな目で見ていると、なるほど大きな家にモチの木は多いように思えてきます。

いまの時期、モチの木はきれいに剪定され、塀の上から頭を出している姿はどこかユーモラスです。

「モチの木」は細工所によく似合う!

*写真:モチの木(細工所で撮影)

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志方町を歩く(177):細工所⑩・細工所あたりの風景(5)

2011-12-13 08:40:28 |  ・加古川市東志方

007『志方町誌』は法華山谷川の流路変更に慎重ながら川筋の変更を認めておられるようです。

 それを確かめたいために、きのう東志方行常(ゆきつね)から志方町の八幡神社の東の大池まで法華山谷川の堤を歩いてみました。

やはり、法華山谷川の左岸(細工所)の方向が若干低くなっています。

流れは不自然です。

  法華山谷川は大池(志方村)へ

      そして、志方村の水瓶に

もうひとつ考えさせられることがありました。

大藤山から東の天神山の方向へ山塊が伸びています。

その山塊は志方八幡神社のある宮山を超えると、いったん落ち込み、高畑の山へと続いています。

二つの山塊の間に小さい谷を造っています。

その谷の南側に堤防を築いて出来あがったのが大池です。

法華山谷川は、東志方行常あたりから大きく南へ向きを変え、大池に流れ込んでいます。

大池は水の少ない志方町の主な田畑の水源となっています。

012前号まで「法華山谷川の流路変更」について、畑から細工所・高畑にかけての東志方の水田の拡大のように書いてきましたが、現地を歩いてみると、むしろ志方村の水瓶を造るために、強引に流路変更が行われたのではないか思えてきました。

これも想像なのですが、もともと大池のある場所は水が自然に流れ込むような低い場所であったとは考えられません。

 山と山のむしろ若干高い地形であったのでしょう。

為政者はここを削り、池を造り、法華山谷川の水をこの池にためて、水の少ない志方村の水瓶にし、志方村の田を美田にかえ年貢の増収を目指したと考えるのです。

    七つ池

 法華山谷川の流路変更は、東志方地区だけの問題でなく、志方村を含めたスケールの大きな重要な課題であったようです。

 だからこそ、水を奪われる地域の水を保証する「七つ池の築造」も同時並行で進めたと考えています。

   想像だけの歴史?

 このブログも今日で1588号となりました。

が、今回のように史料もなく強引に推測だけで書いたのは初めてです。

間違いだらけかもしれません。

この続きを一緒に調べてみませんか?

*写真上:法華山谷川(大池の)手前

 写真下:志方大池(現在水はなかった)

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志方町を歩く(176):細工所⑨・細工所あたりの風景(4)

2011-12-12 08:36:19 |  ・加古川市東志方

今、当然のように法華山谷川川筋変更の事をかいていますが、史料に拠っての文章ではありません。

仮説で書いています。間違いをご指摘ください。

  

  流路変更(法華山谷川)

Puaru_018『志方町誌』も法華山谷川の流路変更に慎重ながら川筋の変更を認めておられるようです。

繰り返しになりますが、地形から考えて法華山谷川の川筋の変更は間違いのないことだと思います。

前号で、想像を一歩進めて、川筋変更がなされた姫路藩主・榊原忠次の統治の時代ではないかと想像してみました。

江戸の初めの頃は日本の大開発時代です。法華山谷川の川筋を変え、細工所・高畑から畑にかけて水田を広げたのでしょう。

    

   水は農民の命

しかし、前号でも述べたように川筋を変更するということは、農民にとって大問題です。全村の利害が一致するとは限りません。

水が少なくなる。つまり、水がとられる地区の農民にとっては、藩主の命令であったとしても受け入れがたい問題です。

藩主としても、一方的な命令では農民の不満はたまり、やがて大きな問題の火種になりかねません。

藩・農民双方にとっても都合のよい解決法を見つけなければならないのです。

現在の言葉ではウィン・ウィン関係を見つけ出さねばなりません。

法華山谷川が畑・行常あたりから高畑・細工所に流れて西川に繋がっていた川筋を変更し水田が広がり、そして水は志方町の方へ流れるようになりました。

細工所・高畑・岡あたりから現在の西川沿いの村々にとっては水が大きく減少します。

    

    流路変更と七つ池

解決方法を見つけなければ、農民の不満は爆発します。

そこで考えられたのが「七つ池の築造」ではなかったかと想像するのです。

『志方町誌』で「七つ池」に関しての詳細はあるのですが、築造の時代を記していません。

そこで、大胆な想像をしてみます。

七つ池は法華山谷川川筋変更問題と同時に計画されたのではないかと考えるのです。

つまり、法華山谷川の川筋を変更して、法山谷川に沿った地域の水田を広げ、また志方町の方面の開発の水に利用しました。

そこで、西川につながっていた法華山谷川の水の代わりに「七つ池」つくり、その水を西川に流したのではないかと想像してみたいのです。

つまり、ウィン・ウィン関係を見事に成立させたのではないかと思います。

従って、七つ池の築造も榊原忠次の統治の時代ではないかと想像します。

以上の文章を書きながら、とんでもない想像をみなさんに押しつけていないだろうかと不安になっています。

仮説を検証することで、正しい歴史が伝わるものです。

みなさんは、どのように想像されますか。

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志方町を歩く(175):細工所⑧・細工所あたりの風景(3)

2011-12-11 08:20:54 |  ・加古川市東志方

『志方町誌』は「川筋変更問題は簡単に断じがたい」と法華山谷川の河川の流路変更説には慎重です。

しかし、流路変更説には慎重ながら流路の変更説を主張されています。

前号で、「川筋を変更したのは、いつごろか?」という問題を提起しました。

   水利権

Puaru_071農民にとって「水」はまさに農民の命でした。そのため各地で水をめぐって激しい争いがおきています。

水に関しては、厳格な掟(おきて)がありました。

水利権です。水利の変更はほとんど不可能でした。

ましてや、川筋を変更するとなると大問題です。

ここに記録はないのですが、それを可能にする方法が、ひとつだけあります。

     藩権力

それは、法華山谷川の川筋変更を藩に願いでることです。(藩の指導であったのかもしれません)

東志方の開発許可を姫路藩に申し出て、藩の許可を得ることでした。

江戸時代、姫路藩の財政事情は火の車でした。

年貢の増収を目指さなければならない事情がありました。

旧来の村の水利習慣をかたくなに守っておれば新田は増えず、とうぜん年貢は増えません。

そこで、藩は各地の水利慣行を変更してでも年貢の増収を目指しました。

「藩の命令」ということであれば、利害が対立する東志方の各村々としても「ノー」とは言えません。

利害の対立する村々も、認めざるを得ませんでした。

     他藩の開発許可は出せない

東志方の村々には特別な問題がありました。

宝永六年(1709)、多くの東志方の村々は小田原藩領となり、それに続き延享三年(1686)より一橋藩の天領として幕末まで続きました。

この経過の詳細については「志方町を歩く(48~51)」をご覧ください。

宝永六年以降、姫路藩は他藩である東志方の村々に命令を出すことができなくなりました。

ですから、川筋変更の許可(命令)が出、川筋の変更が実施されたのは江戸時代の初めから宝永六年に限られます。

とりわけ、姫路藩主榊原忠次は、万治二年(1659)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで二つに分かれていた升田~船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施しています。

彼は、姫路藩の開発に力を発揮した大名です。

法華山谷川の河川の流路変更も彼の時代ではなかったかと想像しています。

間違いをご指摘ください。

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志方町を歩く(174):細工所⑦・細工所あたりの原風景(2)

2011-12-10 07:13:22 |  ・加古川市東志方

   

  川筋変更問題

005  『志方町誌』から引用させていただきます。

 「・・・(法華山谷川は)行常を出たあたりから高畑にかけての川の底が両側の土地より高くて、どうも自然にできた川とは思えない。

ちょっと雨が降ると堤すれすれに増水して今にも堤防が切れるばかりである。

(勿論、現在は河川の堤の補強工事が行われています)

こういう無理があったのは人工的に川筋を変更した証拠だというのである。

 つぎに、大沢から細工所にかけての一帯は地下水が豊富で、しかもその地下水は南流している。

すなわち、これは川床なのだという。細工所の南部は、少し掘ると砂礫が多く水がわいて困るそうである。・・・」

『志方町誌』は「(しかし)川筋変更問題は簡単に断じがたい」と河川の流路変更説には慎重です。

志方町の地図を片手に、山から景色(写真:高畑から畑の方向を撮影)を眺めてみると、川筋を変更したことは確かなことのように思えるのです。

 ・・・・・

 もう少し『志方町誌』から引用させていただきます。

「・・・昔の(法華山谷川の)川筋と思われる高畑、細工所、吉広方面は水があり余るほどあって、それほどこの川を必要としなかったのに反して、この川を志方大池の方へ引くことによって、どんなに志方町方面が水利の便を得たか、ということは言えることである。

 あるいは、もとからこの川(法華山谷川)は行常あたりから二つに分かれて流れていたのを一つにしたのかもしれない・・・」

このように、『志方町誌』の著者も、流路変更説には慎重ながら法華山谷川の河川の流路の変更説を主張されています。

    法華山谷川の川筋変更はいつのことか?

それでは、次に問題なるのは、「川筋を変更したのは、いつごろか?」ということになります。

次号で、考えることにしましょう。

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志方町を歩く(173):細工所⑥・細工所あたりの原風景(1)

2011-12-09 00:07:51 |  ・加古川市東志方

  法華山谷川のながれ

Efc84c5e今回は、少し細工所を離れます。

志方町の地図()で法華山谷川の流れを見ています。

畑から細工所・高畑に向かって広がる水田耕地(水田)に注目ください。

不自然なところがあります。

水は当然、高い所から低い所へと流れます。

とすると法華山辺りから流れ出した水は、畑の集落あたりから高畑・細工所の方へ一番低い所を流れて川をつくるのが自然です。

しかし、そうはなっていません。一番低い所を避けて山裾から平野部の少し高い所を流れ、そして東飯坂の集落から南(志方町志方)へ大きくカーブをきって流れています。

これは、明らかに元の流路が、高い所に付け替えられ、そこを水田に造り変え、高所を流れる川から池に水をためたり、田に水を引いたのでしょう。

これが現在の法華山谷川のながれです。

元の川の氾濫原は豊かな水田に一変しました。

それは、いつの頃だったのでしょう。

記録がないので確実なことは言えませんが、他の地域の開発のようすなどから想像して、江戸時代の初めの頃ではなかったかと考えます。

地形から判断して、法華山谷川は畑の集落あたりから高畑・細工書の方へ流れ、現在の西川と繋がっていたと想像して間違いないと思います。

次の文章をお読みください。

  日本の農村の原風景は江戸時代の初めにつくられた

江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、荒れ地(氾濫原)も一挙に開拓が進み、この頃に現在の日本農村の原風景は形作られました。

その理由を歴史学者・大石慎三郎氏は、次のように説明されています。

「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)

つまり、江戸時代は戦争のない時代となりました。戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたのです。

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志方町を歩く(172):細工所⑤・明治初期の細工所

2011-12-08 10:04:51 |  ・加古川市東志方

明治初期の細工所

Eccb34e8「志方町を歩く(170)」で、明治2241日、全国的に市町村の再編がおこなわれたことを紹介しました。

復習しますと、細工所村・高畑村・岡村・広尾村・野尻新田村・大沢村・行常村・大宗村・畑村・雑郷村・東飯坂村・東中村の12ヶ村が合併して東志方村が誕生したのです。

役場は、細工所村に置かれ、東志方村の中心となりとなりました。

その当時の細工所の人口をあげておきますので、村の様を想像ください。

<明治22年の細工所の人口>

   男  223人

   女  212人   合計 435人

   戸数  72戸

         *『兵庫県市町村合併史』より

 なお、明治22年4月1日、江戸時代・大庄屋を務めた玉田家の玉田範威が初代東志方村の村長となり、明治31年9月20日、44才で没するまで在職しました。

大庄屋・玉田氏については後に紹介することにします。

  <明治15年当時の細工所の人口>

 なお、明治13年より編集にかかり同15年に発行された『播磨国地種類便覧』によると細工所の人口・戸数は以下のようです。

明治22年の細工所の人口・戸数は、共に明治15年当時より大きく減少しています。

その原因を考えてみたいが、今日は数字だけを記しておきます。

    人口  490人

    戸数  115戸

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