加古川城廃絶
加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。
徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。
武則は、秀吉の栄達とともに出世したが、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃したのです。
「賎ケ岳7本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しました。
そのため、7本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。
幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれています。
一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、慶長七年(1603)、めし出され後断絶す
おそらく息子・宗孝の代に廃絶されたのでしょうが、詳細はわかりません。
「もし」の話ですが、もし武則が家康側に味方しておれば、その後の加古川の歴史は、大きく変わっていたであろうと想像されます。(no5096)
*写真:糟谷武則の墓、称名寺(加古川町本町)の裏手