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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町本町探検(18) 加古川城廃絶

2021-02-17 07:38:09 | 加古川町本町探検 

      加古川城廃絶

 加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。

 徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。

 武則は、秀吉の栄達とともに出世したが、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃したのです。

 「賎ケ岳7本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しました。

 そのため、7本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。

幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれています。

 一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、慶長七年(1603)、めし出され後断絶す

 おそらく息子・宗孝の代に廃絶されたのでしょうが、詳細はわかりません。

 「もし」の話ですが、もし武則が家康側に味方しておれば、その後の加古川の歴史は、大きく変わっていたであろうと想像されます。(no5096

 *写真:糟谷武則の墓、称名寺(加古川町本町)の裏手

 

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加古川町本町探検(17) 賎ケ谷七本槍・糟谷武則

2021-02-16 07:57:22 | 加古川町本町探検 

   賎ケ谷七本槍・糟谷武則

 

「加古川評定」の行われた加古川城(加古川町本町)の城主は、糟谷武則でした。

 天正10(1582)信長父子が本能寺で明智光秀に討たれた後、秀吉は高松城(岡山県)の水攻めを手際よく切り抜け、山崎の合戦で早々と光秀を敗死させました。

 この時、秀吉は、信長の第一の家臣であった柴田勝家と対等の地位につき、また、信長の葬儀を主宰し、その力を徐々に拡大させました。

 ついに、柴田勝家と雌雄を決する戦いの火ぶたがきっておとされました。

 これが、賎ケ岳の戦(しずがだけのたたかい)です。

 この賎ケ岳の戦では、秀吉の機動力もさることながら、家臣の勇敢な戦いぶりも、勝利に導いた大きな要因でした。

 特に、福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、加藤嘉明、そして糟谷武則7人の活躍は目覚しく、後に秀吉から感謝状が贈られ、それぞれに三千石の加増がありました。

 糟谷武則に対する感状は次のようです。

 播州賀古郡内二千石、河州河内郡内千石、都合三千石事、目録別紙相副令畢(おわんぬ)永代全可領知候如件

     八月朔日             秀吉(花押)

      糟須屋助右衛門(貞雄)殿

 糟谷武則は、郡内を含めて三千石を与えられました。

 これら賎ケ岳の戦で活躍した七人衆は、後に「賎ケ岳七本槍(しずがだけひちほんやり)」とよばれています。(no5095

 *挿絵:刀剣ワールド『賤ヶ岳の戦い』より

 

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加古川町本町探検(16) 加古川評定(no2)・ 加古川評定実況(『播磨灘物語』より)

2021-02-15 08:10:56 | 加古川町本町探検 

   加古川評定(no2)・ 加古川評定実況(『播磨灘物語』より)  

  前号の「加古川評定」の続きです。

  歴史といながら、今日は司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』の一部を読むことにします。

  

 ・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまった。当然のことながら秀吉は正面の席にいる。

  播州者は、みな秀吉をあるじのごとく秀吉にむかい、はるかに下がっている。

  「なぜじゃ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(べっしょよしすけ・三木城主長治の叔父)のごときは「ちょっと、かわやに・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

  評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる場所に座っておるのか・・・」といいたかったところであろう。

  「かわやに・・・」といった賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡しひまをつぶした。

  ・・・・この後、もとの席に帰り、長々と秀吉に戦法を講釈した。

  たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させた。・・・(『播磨灘物語』より)



  賀相は三木に帰り、この評定のようすを城主・長治に伝えました。「・・・秀吉の態度はまことに無礼であった・・」と。

  この時、三木方は毛利氏に味方し、信長・秀吉方と戦うことが決定しました。(no5094

 *この評定は、加古川城で行われました。図は加古川城近辺の小字名です。「城の開地」が城跡でしょう。(『加古川市史(第二巻)』より)

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加古川町本町探検(15) 加古川評定(かこがわひょうじょう) no1

2021-02-14 08:33:07 | 加古川町本町探検 

   加古川評定(かこがわひょうじょう) no1

 秀吉が加古川村(現:本町)へやってきました。時は、信長・秀吉の頃です。

 当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大阪では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれません。

 その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏です。

 やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されることになりました。

 当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。

 天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。

 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。三木城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。

 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺あたりが加古川城跡)で開かれました。

 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加しました。

 世に名高い「加古川評定」です。この評定は、決裂し、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになったのです。(no5093

  

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加古川町本町探検(14) 播磨の守護所

2021-02-13 09:25:58 | 加古川町本町探検 

         播磨の守護所

 平家滅亡の後(鎌倉時代)、加古川地方へ関東から多くの武士の移入があり、東播磨の中世は、はじまりました。

 そして、現在の県庁といってもよい播磨の守護所が、加古川町本町に置かれたのです。

 場所は、現在の称名寺ある場所辺りと言われています。

    守護所は、加古川に置かれた 

 源氏としては、できれば播磨の県庁所在地である姫路に守護所を置きたかったようですが、古代から何かと播磨の中心は姫路でした。

 姫路は、天皇政権の役所である国衙(こくが)が置かれており、もともと都との結びつきのつよく、そのつてで京都の公家や役所と結び、自分たちの地を守ろうとしました。

 そのため、姫路周辺には平家の所領が少なく、源氏が姫路周辺で勢力を伸ばそうとして時に、姫路周辺の土豪たちは源氏に抵抗し、源氏領にできなかったようです。

 源氏は、姫路に地頭を大量に送りこめませんでした。

 守護所を固めるには膨大な守護領が必要ですから、その点で具合が悪かったのです。

 したがって、源氏は東播磨のほうに、県庁を設置せざるを得なかったというのがその主な理由でした。

 守護の財源となる広大な平家の守護領、五箇荘(五家荘)の中心であった加古川に守護所を置いたのでしょう。

 ともかく、播磨の政治の中心となる守護所が加古川に置かれることになりました。

 現在の稱名寺のある辺りに守護所が置かれました。

 *写真:称名寺(守護所は現在の称名寺ある場所と言われています)(no5092

 

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加古川町本町探検(13) 加古川映劇

2021-02-12 10:14:59 | 加古川町本町探検 

   加古川映劇

 加古川小学校北側の道路を西に向かい、ニッケ社宅に入る手前の雁南川のたもと右側に「加古川映劇」がありました。

 戦後しばらくは、地方回りの役者が芝居工業をしていましたが、その後全面的に改装して映画館として再出発しました。

 しかし、町から少し遠いこともあってか、昭和37年には営業不振で閉館しました。

 「映劇」の期間が短かったせいか、加古川の町の人たちは今でも「加古川劇場」と覚えておられるようです。

 

 蛇足:小学校の頃、自宅は加古川映劇の近くでした。まだテレビもなく映画が全盛期で、加古川の中心から少し離れていましたが、加古川映劇は元気でした。

 小学校の上級生のころだったと思います。当時、有名な喜劇俳優の「金五郎さん」の公演がありました。入場券もないのにでかけました。

 羨ましそうに長い時間、劇場の前でうろうろしていたことを覚えています。(no5081

 *写真:昭和27年ごろの加古川映劇(松下哲雄氏提供)

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加古川町本町探検(12) 洋館・ニッケ社宅倶楽部

2021-02-11 09:01:44 | 加古川町本町探検 

    ニッケ社宅倶楽部

 トロッコ道を抜けるとニッケ社宅です。

 社宅には洋館があります。日本毛織が向上を建設する際に事務所として建設された木造に買い洋館建ての事務所です。ニッケ工場のに伴い現在の社宅用地に移築されました。

 1号館と2号館があります。

 ドイツ人技術者など外人技術者の宿舎に充てられました。

 工場完成後、外人技術も呼ばれなくなり、その後ニッケ倶楽部として社員に開放されました。

 

 もうすぐ春。桜と洋館がきれいな風景を作ります。

 その時は、カメラを持ってお出かけください。(no5091

*写真:ニッケ倶楽部(洋館)と桜

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加古川町本町探検(11) 映画「火垂るの墓」、ニッケ社宅でロケ

2021-02-10 08:49:50 | 加古川町本町探検 

    レトロなニッケ社宅

 日本毛織(ニッケ)が古川工場を建てた際に、春日神社前周辺の多一帯を買い上げ遊園地にしました。

 その後、工場から排出される石炭殻の捨て場として埋め立てられ、工場が拡大するにつれて社員も多くなり大正時代に工場拡張のため、工場内にあった社員住宅が、ここに移転されました。

 古い大正・昭和レトロの雰囲気を残す地域として、映画の撮影にしばしば使用されています。

    映画「火垂るの墓」、ニッケ社宅でロケ 

 作家の野坂昭如さんが自らの戦争体験を基に著した小説「火垂るの墓」の映画撮影が、2011年6月22日、加古川市加古川町の日本毛織の社宅が立ち並ぶ住宅街であり、女優の松阪慶子さんも加わり、住民がバケツリレーで消火訓練をする場面などが撮影されました。

 原作のイメージを尊重して「できるだけ神戸周辺で撮影したい」という監督の意向から、撮影は9月中に播磨地域をはじめ、すべて県内で実施されました。

 日本毛織社宅は明治・大正期の建築。洋館や和風建築の住宅、板やれんが塀が続く路地が残っています。

 松坂さんは「この映画にぴったりの住宅街で、実感を持って演技ができる。レンガの壁などがモダンで、とても素晴らしい。清流・加古川もすごくきれいで、こんなところで暮らせる人は幸せだなあ、と思います」と話されました。(no5090

*写真:火垂るの墓撮影風景(松坂慶子さん)

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加古川町本町探検(10)  国道2号線の下にトンネルが・・・

2021-02-09 09:28:05 | 加古川町本町探検 

 国道2号線の下にトンネルがあります。

 場所は。加古川橋東詰から少し東へ下ったところです。

 

 このトンネルについて知る人は少なくなり、詳しいお話をお聞きすることはできませんでした。

 さいわい、山脇重弘氏の著、『加古川町実記(かこがわまちじっき)』で、このトンネルについて、次のように書かれています。文章を少し変えて、お借りします。

      国道2号線の下にトンネルが・・・

 日本毛織加古川工場から少し離れた春日神社周辺の低地を日本毛織が購入して、遊園地にするために、はじめは原毛の廃屑をうめていましたが、後に工場で出た石炭の燃え滓を本町社宅造成のためトロッコで運びました。

 そして、ニッケ工場内に新しい工場の建設のために、工場内の社宅をここに移転しました。

 国道2号線の下の低いトンネルをくぐり、今は線路も撤去され本町の西国街道(本町・寺家町商店街を通る道)とニッケ社宅を結ぶ南北道路となっています。

 加古川宿サロンの岡田義治さん(故人)は、トロッコが工場で排出された石炭殻を積んで運ばれていたと話されました。

 

 岡田義治さんも亡くなられ、「加古川サロン」も無くなりました。本町の歴史の語り部が少なくなっています。

 「トロッコ道」についてご存じの方、または写真等をお持ちの方はご一報ください。(no5089)

 *写真:トロッコ道(トンネルの上が国道2号線で、左へ少し行くと加古川橋東詰)

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加古川町本町探検(9) 加古川地蔵尊

2021-02-08 08:24:06 | 加古川町本町探検 

      加古川地蔵尊

 加古川2号線の橋詰めに地蔵尊があります。

 場所がら、交通安全を願う地蔵尊かとも思える地蔵尊ですが、そうではありません。

 加古川は恵みの川です。子供たちは、水泳・魚とりなどでよく遊びました。

 子どもの頃、私も夏休みには、毎日のように水浴びや魚とりに出かけました。

 楽しかったですね。

 でも、ドキリとしたことを何回か経験しました。

 流れが変化する場所がありました。そして、深みもありました。

 時々、子供が亡くなる悲しい事故もあり、「加古川地蔵尊」は、川で亡くなった人の霊を慰めるために建てられました。

 老人会の方がきれいに掃除をし、祀られています。


    加古川地蔵尊ご詠歌

 一、こころにあおぎ まつらんじぞうそん

   かこのながれの きよきよすがた

 二、きょうもなおふかき  みとくをふしがみ

   しゅうじょうとともに いくよをまつらん(no5088

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加古川町本町探検(8) 保存されている親柱

2021-02-07 07:54:42 | 加古川町本町探検 

 

   保存されている親柱

 前号の続きです。

 明治以後、幾度となく橋が架設されたが、流失しています。

 加古川橋の歴史を復習しておきます。。

 明治7年     粗造の木橋を架設  

     明治12511日流失(再建されるが14年再び流失)

 明治16831日  新しく架設

     明治25724日流失

 明治27331日  新しく架設

     明治29年以降毎年の洪水のため破損がひどくなる

 大正2年6月    本格的な鉄の新橋架設(上の写真)

 大正13815日   現在のもとになる加古川大橋完成

 今日は、大正2年6月に完成した旧大橋について付け加えておきます。

 この旧大橋の手前の親柱の4本に注目してください。

 目立たな場所ですが、この橋の親柱が船頭側(西岸)の土手に写真のように保存されています。このあたりのお出かけの時はご覧ください。

 バンバン‐テレビで放映されたとき、「そえんじさん」と一緒に案内させていただきました。(no5087

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加古川町本町探検(7) 旧加古川橋と橋げたの土台

2021-02-06 09:41:13 | 加古川町本町探検 

  旧加古川橋と橋げたの土台

 加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分が残っています。

 今日は、この橋げたの土台と旧橋の話です。

 加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川でした。

 技術的な問題もあったが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川に橋が架けられていませんでした。

 明治時代、何回も橋が架けられるかけられたが、その都度流されてしまいましまいました。

 大水に流されない、がっちりとした鉄の橋が求められました。

 そして、大正2年6月に、本格的な鉄の新橋(写真上)が架設されました。



 その鉄の橋の橋げたの土台(写真下)が、今の国道2号線の北に点々と残っています。

 やがて、交通量が増えました。それに自動車が登場します。そのため、新しい本格的な橋が求められたのです。

 それが、一部改築されましたが、現在の橋です。その橋が現在大変貌されようとしているのです。

 写真で、大正2年6月に架設された本格的な鉄橋と橋げたの土台を見ることにしましょう。(no5086

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加古川町本町探訪(6) 加古川の河岸(かし)と塩座

2021-02-05 10:57:27 | 加古川町本町探検 

 加古川の(河岸)の続きです。

 そこは、食事所があったのであろう、茶屋所(ちゃやじょ)と呼ばれていました。

 加古川の河岸は、荷の輸送はあまり繁盛していなかったようです。

 それまでは、ほとんどの荷物は高砂まで直接運ばれ、ごく一部が小揚(こあげ)される程度であったといいます。

   加古川の河岸(かし)と塩座

 高砂では、製塩業がさかんでした。

 そして、塩の行商はこの地方の主な産業の一つになっていました。

 舟運の発達により大量の塩が高瀬舟で奥へ運ばれるようになりました。

 それまでの商人の生活がなりたたなくなってきました。

 そのため、塩商人たちは姫路藩に対して運上銀(税金)の上納と引き換えに販売権を願い出て、認められました。

 享保一六年正月に加古川村に、塩の販売を監視し、運営する塩座(塩改所)が設置されました。

 高瀬舟による塩輸送にも運上銀がかけられるようになりました。

 塩座は、高瀬舟が積み込む塩については、塩一石につき銀三分五厘を徴収しました。

 *写真:製塩業の面影(本文と時代は異なりますが、昭和20年代まで高砂の曽根町では、こんな塩田風景がみられました )(no5085

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加古川町本町探検(5) 加古川の河岸(かし:港)

2021-02-04 11:02:20 | 加古川町本町探検 

    加古川の河岸(かし:港) 

 江戸時代、西国街道(現在の寺家町商店街)の陣屋(寺家町)辺りからさらに西へまっすぐ西へ行くと、加古川の渡場に突き当ります。

 そこに、加古川の河岸(かし)がありました。

 *川の港は「河岸」と呼ばれていました。

 加古川大河であり、技術的なことや防衛のために橋がかけられていません。渡河には渡し舟を使いました。

 『加古川市史(第二巻)』に「十二景詩歌」より、加古川の渡し場の風景があります。

 なお、ブログの絵は「加古川サロン」(加古川市加古川町本町)の岡田義治さん(故人)が「十二景詩歌」をもとに描かれたものです。(紙面の都合で、絵はその一部)

 渡し場のそばに粗末な小屋があり、馬子や駕籠かき、そして何人かの商人が描かれています。

 この絵から、当時(江戸時代後期)の加古川の渡し場の風景が想像できます。加古川の河岸は、あまり賑わいのある渡し場ではなかったようです。

 河岸の向こうは、船頭(ふなもと)の港です。現在船頭は、「せんどう」と読ませています。

 なお、船頭は、元加古川村の一部で一続きの集落でした。が、洪水のため加古川の流れが集落を分断したための江戸時代の初めに加古川村から分村した集落でした。(no5084

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加古川町本町探検(4) 西国街道沿いの町

2021-02-02 23:40:00 | 加古川町本町探検 

 西国街道沿いの町  

 

 戦国時代が終わり、徳川幕府が全国を統一しました。

 多くの、新しい政策が実施されました。代表的なものは、交通網の整備でした。

 幕府は、江戸を起点として五街道を本街道とし、その他の主な道を脇街道としました。

 山陽道は、古代においては、都と九州の大宰府を結ぶ最も主要な「大路(たいろ)」でしたが、江戸時代に西国街道(中国街道)と呼ばれる脇街道となりました。

 そのため、西国街道の維持管理は、幕府の政策にそったものでしたが、管理は大名にまかされました。その分、姫路藩は自由に運営ができるようになりました。

 「慶長播磨絵図」をみると、加古川の宿は、江戸時代の最初から宿駅の指定があったようです。

 寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立すると、加古川の宿にも大名の宿泊施設である「本陣」が寺家村におかれ、旅行者の荷物を次の宿場まで運ぶ、人馬を提供する施設も整備されました。

 この道は、加古川町では、現在の平野・寺家町、そして加古川町(現本町)をとおりました。

 東は神戸の元町商店街をぬけ、神戸大丸のある交差点で出て、さらに、大坂・京都・江戸へと通じました。西は、長崎へと伸びました。

 しばらく、西国街道(中国街道)加古川の宿を平野から、寺家町、加古川町(現:本町)をとおり、加古川岸にあった「渡し場」まで歩くことにします。no5083

  

 

 

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