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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(25) 工楽松右衛門物語(10)・高田屋嘉兵衛との出会い

2014-10-27 12:48:22 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

 ここに、もう一人の人物が登場する。高田屋嘉兵衛である。

 工楽松衛門は地元・高砂市でこそ知られていたが、あまり広く知られているとはいえない。
 彼を全国的に有名にしたのは、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』である。

 特に、『菜の花の沖(全六巻)』(文芸春秋・文庫)の第二巻に、ずばり「松右衛門」の項がある。

   高田屋嘉兵衛・兵庫湊へ

 高田屋嘉兵衛は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ逃げた。

 寛政二年(1790)先に、兵庫湊の堺屋で働いていた弟の嘉蔵(かぞう)のところへ乞食のような姿で転がり込んだ。

   新酒番船で一番に

 兵庫湊は樽廻船・菱垣廻船・北前船でにぎわい、嘉兵衛には驚き連続であった。

 寛政三年(1791)、嘉兵衛の乗りこんだ堺屋の樽廻船が、その年の「新酒番船」に出場して、みごと一番の栄誉をうけた。

 早春の太平洋は、まだ波が荒い。「新酒番船」とは、その年の上方の新酒を樽廻船に積み江戸到着の順位を競い、一番はたいそう名誉なこととされていた。

嘉兵衛は、その船の事務長のような役割を果たした。

 嘉兵衛の働く堺屋も北風家の傘下にあった。北風家は、嘉兵衛の将来を見込んで、兵庫湊・北風家の名をあげるため、いろいろとしかけたようである。

   嘉兵衛と松右衛門の出会い

 以下の高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面は、司馬遼太郎氏の想像であろうが、彼らの風景としては、いかにもありそうな話である。

 ・・・・

 兵庫湊の西出町の長屋は、冬になると賑やかになった。冬は海が荒れる。よほどのことがないと船は動かない。

 北前船や樽廻船が、この時期うごかないため、船乗りたちは春からの仕事に備えて岡での生活を楽しむ。

 が、嘉兵衛は、暇ではなかった。堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばならない。

 「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことだが、老朽あるいは損傷のか所を修理するということも含まれている。

 兵庫の湊の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかった。

 兵庫のせまい「船たで場」が予約でいっぱいの時は、海向こうの讃岐(香川県)の多度津まで「船たで」に行くことになる。

 船舶の世界において、多度津は田舎ではない。船大工などもむしろ兵庫より人数が多く、腕のきこえた者も少なくなかった。

    多度津(讃岐)にて

 嘉兵衛が多度津で、「船たで」の作業を監督していると、隣の「船たで場」に、兵庫の廻船問屋船が「船たで」をしていた。

 嘉兵衛が「船たで場」からみていると、大柄な男がこちらへ近づいてくる。

 御影屋の「簾がこい」に入った。松右衛門旦那であることはまぎれもない。

 松右衛門旦那は、「簾がこい」から出てきて、嘉兵衛に近づいてきた。

 嘉兵衝は、あわてて船の上から降りてくると、松右衛門旦那のさびた声が耳にとどいた。

 松右衛門旦那は、嘉兵衛に声をかけた。嘉兵衛はすこしあがっていた。

 人間としての品格が、いままでみたどの人物とまるでちがっていた。

 やがて風むきが変わって「船たで」の煙がただよいはじめたので、松右衛門旦那はもどっていった。

 その夜、嘉兵衛は、松右衛門にご馳走になった。

 嘉兵衛は「松右衛門さんが、目にかけてくれている」と思うと、震えるような嬉しさを感じた。

 *挿絵:高田屋嘉兵衛・小説『菜の花の沖(四巻)』カバーより

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高砂市を歩く(24) 工楽松右衛門物語(9)・蝦夷地へ

2014-10-27 06:43:28 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

     商業を縛る株仲間

 松右衝門は、松衛門帆でいくばくかの金は得た。「これで、鉛を乗りまわせる」と、松右衛門はよろこんだ。

 松右衝門が少年のころ奉公した御影屋も先代の死後、衰徴していたため、帆でもうけた金でこの株をゆずってもらい、御影屋の当主になった。

 当時、兵庫には北前船の廻船問屋が13軒あり、幕法によってそれらが「株」として固定しており、勝手に新規開業することができなかったのである。

    蝦夷地へ

 江戸時代、「株仲間」が、大きな力を持ち威張っていた。

 それは封建制度そのものといってもよかった。株仲間は新興の勢力が入りこむことを、蹴落とす組織であった。

 幕府は、株仲間からの利益を吸い上げることのみに熱心で、変化を好まなかった。

 江戸は、膨大な食欲を持つ消費都市であり、そこへ商品を運びこむというのが一番いいのであるが、そこには菱垣廻船、屋樽廻船という株仲間が独占していた。

 そのため、松右衛門は「もうけ」のために、日本海、そして蝦夷地に乗り出さねばならなかった。

    蝦夷との商い

 松右衛門のように持船がすくなく、あたらしい商人には、既成の航路に割りことはむずかしい。松前(蝦夷地)へ行く商いの方がやりやすかった。

 松前(蝦夷地)の商品で最大のものは肥料用のニシン(干鰯・ほしか)で、この肥料が上方や播州などの植物としての木棉の生産を大いにあげている。

 しかし、これらの商品も、株仲間が組織されていて、松右衛門のような新参が割りこめないし、割りこめても妙味が少なかった。

 そのため、北風荘右衛門は、松右衡門に、あつかう商品として、昆布と鮭をすすめた。

 松前から帰ってくる北前船の昆布を大量に上方に提供した。

 昆布を料理のダシにつかい、上方料理の味を変えた。

   松右衛門の発明・アラマキ鮭

 さらに、松右衛門は、蝦夷地で一つの発明をしている。「アラマキ鮭」である。

 松前(蝦夷地)から運ばれている鮭は塩鮭で、塩のかたまりを食っているようにからいものであったが、松右衛門は松前で食った鮭の味がわすれられず、この風味をそのまま上方に届けたかった。

 かれは内蔵やエラをのぞき、十分水洗いをしてから薄塩を加え、わらでつつんだ。

 そして、アラマキ鮭だけのために早船を仕立てた。

 このアラマキ鮭の出現は、世間から大いに喜ばれた。

 ハム、ソーセージ、鰹節などの食品の発明は、人々の生活に大きな影響をおよぼしたが、その発明者の名は知られていない。

 アラマキ鮭の発明者は、松右衛門であったことが記録として残っている。(『菜の花の沖』参照)

 *写真:アラマキ鮭

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高砂市を歩く(23) 工楽松右衛門物語(8)・故郷は綿の産地

2014-10-26 14:01:00 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

    松右衛門帆でもうけよ

 松右衛帆について、さらに触れたい。

 かれは、この帆布の製作のために兵庫の佐比江に工場を設けたが、当時まだ沖船頭(雇われ船頭)の分際であったため、この資金は北風家、あるいはその別家の喜多家から出たのではないかと思える。

 佐比江(さびえ)の工場では、船主や船頭が奪いあうようにして出来上がりを持ってゆくというぐあいで、生産が需要に追いつかなかった。

かれは、むしろ積極的にこの技術を人に教え、帆布工場をつくることをすすめた。

 このため弟子入りする者が多く、工場はにぎやかに稼働したが、独立してゆく者も多かった。

 数年のうちに播州の明石、二見、加古川、阿閇(あえ・現:播磨町)などで、それぞれ独立の資本が工場をうごかしはじめ、西隣りの備前、備後までおよんだ。

   故郷は綿の生産地

 元禄十年(1697)に刊行された江戸時代の農書『農業全書』に、河内(かわち・大阪府)、和泉(いずみ、大阪府)、摂津、播磨、備後(広島県)の五ヵ国について、土地が肥沃で、綿を植多大な利潤をあげたことが紹介されており、県内沿岸部の摂津や播磨が、近世前期から綿作のさかんな地域だった。

 とくにさかんだったのは、現在の加古川・高砂市域一帯の平野部であった。

 18世紀中ごろから村明細帳(むらめいさいちょう)に綿作のことが記されるようになっているが、畑作物とし多くの村々では綿が作付されており、それは幕末のころになっても変わっていない。

 田畑全体の50パーセントに作付される村が多く、畑にはほとんどすべて綿を植えるという村も多かった。

 伊保崎村・荒井村(高砂市)から別府村・池田村(加古川市)一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%であった。

 松右衛門は、こんな町の空気を吸って少年期を過ごした。その中に、松右衛門帆のヒントがあった。

 *挿絵:綿花

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高砂市を歩く(22)  工楽松右衛門物語(7)・松右衛門帆

2014-10-26 07:41:58 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

      松右衛門帆

 松右衛門を最初に有名にしたのは、「松右衛門帆」の発明である。

 近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用された。

 しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねて太いサシ糸でさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)であった。縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度不足により破れやすかった。

    帆の改良

 「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからである。

 かれは北風家の別家で話しこんでいたときに不意にヒントを得たらしい。

 幾度か試行錯誤をしたらしいが、「木綿布を畿枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思い、綿布の織りをほぐしては織りの研究からはじめ、ついに太い糸を撚(よ)ることに成功した。

 縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織った。

 ・・・・できあがると、手ざわりのふわふわしたものであったが、帆としてつかうと保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではなかった。

 かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれる.

 ・・・・

 「松右衛門帆」とよばれたが、ふつう単に「松右衛門」とよばれた。

 さし帆より1.5倍ほど値が高かったが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)してしまった。

 わずか7、8年のあいだに湊にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いていた。

 その普及の速さはおどろくべきものであったといっていい。

 (以上『菜の花の沖(二)』参照)

 *写真:松右衛門帆で進む北前船

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高砂市を歩く(21) 工楽松右衛門物語(6)・松右衛門のエピソード

2014-10-25 07:30:06 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   エピソード①・大みそかの海

  松右衛門、24才のときのことである。

 松右衛門は、讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていた。

 その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあった。

 しかし、彼は迷信を信じていなかった。おびえる水主たちを説得してその夜出港した。

 夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだした。「山のような波が押し寄せてきた」というのだ。

 松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じた。

水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めた。すると、目の前から山は消えた。

 松右衛門には最初からこの「山のような波」は見えなかったらしい。

 「迷信を信じおびえていた水主たちにはそのように見えた」というのが実際のようである。

 松右衛門は、合理的に物事を考える人であったが、松右衛門自身も山が見えたということにしておいた方が、同じ船に乗る者の気持ちが一つになると考えたのである。

 彼の言葉により船は無事にすすみ、水主たちは冷静さをとりもどした。

  エピソード②・筏で材木を江戸へ運ぶ

 松右衛門は、兵庫湊の「御影屋」という廻船問屋で水主(かこ・船乗り)をしていが、ずいぶん北風家の世話になった。

 そこで船乗りとしての知識や技術、そして商いを覚えた。

 北風家も、松右衛門をずいぶん可愛がり援助をしたようである。

 次の松右衛門が筏(いかだ)で材木を運んだということも、北風家から出た話であろうと思われる。

 誰も考えつかないようなことを行わせ、一挙に「兵庫湊と松右衛門あり」と宣伝した。

 松右衛門も見事にそれに応えた。

 ・・・・彼が30才のころ、姫路藩から頼まれて秋田から材木を運ぶことになった。

 しかし、当時大きな材木を積むことのできる船はなかった。

 秋田の商人から工夫を頼まれた松右衛門は、材木を筏に組んで、それに帆と舵(かじ)をとりつけることを思いついた。

 木材の運搬を頼まれたのは、北風家であったのであろうが松右衛門を見込んでの事だった思われる。

 ・・・・筏(いかだ)は、基本的に船と同じ機能を持つ。

 このいかだ船で、秋田から大坂まで航海をした。この時は、寄港する先々で「めずらしい船が来た」と注目を集めた。

 この方式で姫路から江戸まで丸太五本を運んだとき、松右衛門は「姫路の五本丸太」という大旗を掲げて航行したという。

 江戸に着いた時には多くの見物人で大騒ぎになったが、この事が姫路藩と松右衛門の名を世に広めたのである。

 このようにして、松右衛門は、船頭として評判はたかまっていった。

 *『風を編む 海をつなぐ』(高砂教育委員会)参照

 
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高砂市を歩く(20) 工楽松右衛門物語(5)、北風家

2014-10-24 07:59:21 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   北風の湯

  北風家について続けたい。

 北風の湯というのは、20人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものであった。

 「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていた。

 老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談は、後進にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報になった。

 洗場では10数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流し会ったりしながら情報を交換していた。湯あがりの後、時には酒もでた。(『菜の花の沖(二)・司馬遼太郎著』より)

   松右衛門も、北風の湯で学ぶ

 松右衛門は、15才で兵庫の湊の、御影屋で働くようになり、やがて船に乗った。

 詳細は分からないが、松右衛門は、20才を過ぎた頃、船頭になった。

 兵庫の湊で働いていたというものの、15~20才前の頃までは、北風の湯へは敷居が高く出入できなかったと想像される。

 20才前にはいっぱしの水主になり、「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れた。

 北風家の祖先は、荒木村重の家臣

 北風家であるが、先祖は、南北朝時代(1329~40)に南朝方に仕えた摂津の豪族であったという。

 その後、織田信長に味方した荒木村重(あらきむらしげ)に仕えた。村重は有岡城(伊丹城)を居城としていた。

 しかし、信長に対する謀反で村重は敗北し、家来は散った。

 この時、北風家の先祖は武士を廃業して、海運業をもとにした問屋を兵庫で起こした。

   兵庫湊、天領となり一時衰弱

 以下の内容も『播磨灘物語(司馬遼太郎著)』を参考にしている。

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになった。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫湊を繁盛させることに力を尽くした。

 しかし、幕府はこの結果を見て、明和六年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)とした。

 が、幕府は兵庫湊の政策(ビジョン)を少しも持たなかった。繁盛しているところから運上金(税金)を取りたてると言うだけであった。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ倒れた。

 北風荘右衛門が34・5才のとき、彼はまず同業の問屋に、兵庫湊の復活を呼びかけた。

 北風家も大打撃を受けていたが、それを回復したのは北風家が船を蝦夷地へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからであった。

 莫大な利益があった。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどした。

 *写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)、七宮神社の近くに北風家・北風の湯があった。

 

 

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高砂市を歩く(19) 工楽松右衛門物語(4)・兵庫の港

2014-10-23 00:01:13 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

      兵庫の港

 秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまった。大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いだのである。

 しかし、大坂の港は大きな欠点があった。

 淀川が押し出してくる土砂は、安治川・木津川尻の港を浅くした。

 徳川中期の頃までは堺がその外港としての役割を果たしていたが、宝永元年(1704)大川の流れを境へ落とす工事が完成して以来、堺は港としての機能を低めた。

 この点、兵庫の港は違っていた。

 六甲山系からは大きな川がない。従って水深が深い。

 徳川期に、その役割を弱めた堺に代わり、兵庫の港(神戸港)は大阪の外港としての役割を果たすようになった。

 最初は、海路遠国から大坂へ運ばれる商品はいったん兵庫(神戸)に運ばれ、そこで陸揚げされず、ほとんどの商品は小船で大坂へ運ばれていたが、船の輸送はますます増え、兵庫の港にもの商品が陸揚げされるようになり、取引が行われるようになった。

 廻船問屋は大いに栄えた。

    北風家

 北風家について『菜の花の沖(二)』(文芸春秋文庫)は、次のように書きだす。

 ・・・・兵庫の津には、北風という不思議な豪家がある。

 「兵庫を興したのは、北風はんや」と土地では言う。

 諸国の廻船は普通大坂の河口港に入る。それらの内幾分かでも兵庫の湊に入らせるべく北風家が大いにもてなした。

 一面、船宿を兼ねている。

 「兵庫の北風家に入りさえすれば、寝起きから飲み食いまですべて無料(ただ)じゃ」と、諸国の港で言われていたが、まったくそのとおりであった。

 北風家は兵庫における他の廻船問屋にもそれをすすめ、この湊の入船をふやした。

 入船が多ければ、その港が富むことはいうまでもない。

 直乗(じきのり・・持船)の荷主や船頭が、自分の荷の何割かを兵庫で下ろしてしまうからである。

    兵庫の北風か、北風の兵庫か

 「兵庫の北風か、北風の兵庫か」といわれるほどであるだけに、遠国(おんごく)からの入船のほとんどは北風家に荷を売った。北風家は直ちに店の前で市を立てるのである。北風家の賑わいの風景が目に浮かぶようである。

 松右衛門も北風家の影響をいっぱい吸いこんで仕事を始めた。

 *写真:小説『風果てぬ(須田京介著)』(神戸新聞総合出版センター)

(北風家に関して、詳しく説明している)

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高砂市を歩く(18) 工楽松右衛門物語(3)・松右衛門の夢

2014-10-22 08:11:39 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

    松右衛門の夢

 若い松右衛門にとって、高砂は刺激にあふれた町であった。

 いっぱい荷物を出積んだ出船、入船があった。そのたびに賑わいがあった。

 「あの船は、どこから来たのだろう・・・どこへ行くのだろう・・」と、まだ見ぬ世界への思いをつのらせた。

 大人から、まだ見ぬ兵庫・大坂・江戸の町の賑わいのようすも聞かされてそだった。

 こんな風景の中で松右衛門は育ち、夢を膨らませた。

   松右衛門を育てた高砂の町

 『風を編む 海をつなぐ』(高砂市教育委員会)は、松右衛門の少年時代を次のように書いている。

 ・・・・

 松右衛門は、漁師の長男として高砂町東宮町(ひがしみやまち)に生まれた。

 幼い頃から舟に乗り、一日のほとんどの時間を海で過ごした。

 彼は持ち前の好奇心で海をよく観察し、こつをつかんでは漁に生かした。

 たとえば、魚釣りの糸の手ごたえだけでかかった魚の種類がわかるようになったり、どの季節のどの時間帯に、どんな魚がどこに群れるかを知るようになったりした。

 松右衛門がねらいをつけて網を打つと、それが外れることはなかったという。

 ・・・・・

 そして、少年であった松右衛門は、漁をするための小船に乗りながら、高砂の港にさまざまな物が運び込まれ、それらが兵庫津へと向かっていく様をじっと観察していたに違いない。

 そして、「いつかは自分の船をもって日本各地をかけめぐりたい」という思いを強くしたのだろう。

このように、漁師として十分な技量を備えていた松右衛門であった15才の時、高砂を飛び出してしまう。・・・

当時にぎわいを見せていた兵庫浜(現在の神戸市こあった港町)へ向かったのである。

 *挿絵:響灘海門(「十二景詩歌」より)

 

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高砂市を歩く(17) 工楽松右衛門物語(2)、どんな人②

2014-10-21 07:34:57 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

    松右衛門・エトロフへ

 天明期から寛政期にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきた。

 ロシア船の出没があった。

 一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れた。

 そんな雰囲気の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだった。

 「・・・エトロフ島で、港をつくれ・・・」

 兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあった。堂々巡りが続いた。

 そんな時である。松右衛門が「・・・・皆さんのご異議がなければ、その御役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と申し出た。

 松右衛門に感謝とねぎらいの言葉があった。この時、松右衛門は50才に近かった。

 エトロフについての知識は持ち合わせていなかった。

 幕府からの工事費の一部は下された。

 松右衛門は、船頭や大工を選び、資材を・食料の準備にあたり5月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かった。

 エトロフに着いたが、短い夏は駆け足で過ぎ去り、冬将軍が迫っていた。

 彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指した。

 その年の9月、あらかた港を完成させた。

 港は、紗那(シャナ)と名づけられた。

 彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里・高砂に帰った。

 郷里・高砂の町は賑わっていた。高砂の港は加古川の土砂で埋もれようとしていた。私財を投じ高砂港を改修した。

 文化九年(1812)、秋風が肌にしみる日だった。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えた。

   工楽松右衛門物語

 以上、少しだけ松右衛門を紹介したが、とにかく、彼の物語は波乱に満ちていた。

 最初に、この物語は、高砂市史等で、できるだけ史実を追いたいが、たぶんに「物語的」になることをお許し願いたい。

 

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高砂市を歩く(16)・工楽松右衛門物語(1)・どんな人?(1)

2014-10-20 06:58:10 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

 再度、工楽松右衛門物語を・・・

 たまらなく好きな人物がいる。工楽松右衛門(くらくまつえもん)である。
 しかし、彼を紹介することに躊躇している。

 史料をほとんど持っていない。こんな状態で彼について書き始めれば、まとまりのないものになってしまうのは当然である。

 しかし、この「高砂市を歩く」の項で、再度、訂正しながら松右衛門について書いてみたい。
   松右衛門、小説『菜の花の沖』に登場

 司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公は、もちろん高田屋嘉兵衛であるが、もう一人の主人公は、工楽松右衛門である。
 これら二人は、激動の時代が生んだ人物であり、歴史の点景としても面白い。
 しかし、工楽松右衛門は、歴史上大きな役割を果たしたが、広くその名を知られているとはいえない。

 そのため、最初に、松右衛門の概略を紹介しておきたい。

   工楽松右衛門物語」の前に(1)

 江戸時代、高砂の町にはにぎわいがあった。豊かな経済力は、個性豊かな人物を多数輩出した。

 その代表的人物が工楽松右衛門である。

 松右衛門が世に知られるようになったのは、船にとって重要な帆布の改良に取り組んだことである。
 船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものであった。
 瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されている。

 当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多かったようである。
 帆布が広く使用されるのは、江戸時代以降である。
 しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく雨水等を含んですぐ腐ってしまった。
 そこで、松右衛門は高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織り、帆にした。
 それは、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風のはらみもよかった。
 さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりはるかに便利になった。
 この帆は「松右衛門帆」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍大商人にのしあがった。
      蝦夷地へ
 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も短縮された。
 松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋も始めた。
 内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ほうだら・にしんかす・昆布・ふのり等であった。特に、塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多かった。
 これらの移入で、当時の食生活も随分変化があったといわれている。
 また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれた。
 そのため、冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送した。
 「あらまき」は、松右衛門の発明品である。

 *写真:工楽松右衛門像(高砂神社境内)

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