ここに、もう一人の人物が登場する。高田屋嘉兵衛である。
工楽松衛門は地元・高砂市でこそ知られていたが、あまり広く知られているとはいえない。
彼を全国的に有名にしたのは、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』である。
特に、『菜の花の沖(全六巻)』(文芸春秋・文庫)の第二巻に、ずばり「松右衛門」の項がある。
高田屋嘉兵衛・兵庫湊へ
高田屋嘉兵衛は、明和六年(1769)正月、淡路島の西海岸(西浦)都志(つし)本村(五色町)という寒村で生まれ、追われるように兵庫へ逃げた。
寛政二年(1790)先に、兵庫湊の堺屋で働いていた弟の嘉蔵(かぞう)のところへ乞食のような姿で転がり込んだ。
新酒番船で一番に
兵庫湊は樽廻船・菱垣廻船・北前船でにぎわい、嘉兵衛には驚き連続であった。
寛政三年(1791)、嘉兵衛の乗りこんだ堺屋の樽廻船が、その年の「新酒番船」に出場して、みごと一番の栄誉をうけた。
早春の太平洋は、まだ波が荒い。「新酒番船」とは、その年の上方の新酒を樽廻船に積み江戸到着の順位を競い、一番はたいそう名誉なこととされていた。
嘉兵衛は、その船の事務長のような役割を果たした。
嘉兵衛の働く堺屋も北風家の傘下にあった。北風家は、嘉兵衛の将来を見込んで、兵庫湊・北風家の名をあげるため、いろいろとしかけたようである。
嘉兵衛と松右衛門の出会い
以下の高田屋嘉兵衛と松右衛門の出会いの場面は、司馬遼太郎氏の想像であろうが、彼らの風景としては、いかにもありそうな話である。
・・・・
兵庫湊の西出町の長屋は、冬になると賑やかになった。冬は海が荒れる。よほどのことがないと船は動かない。
北前船や樽廻船が、この時期うごかないため、船乗りたちは春からの仕事に備えて岡での生活を楽しむ。
が、嘉兵衛は、暇ではなかった。堺屋の持船のうち、二艘の船底を「たで」ねばならない。
「たでる」とは船底を燻して、木材を食う虫を追いだすことだが、老朽あるいは損傷のか所を修理するということも含まれている。
兵庫の湊の欠陥として、この浦が出船・入船で繁昌するあまり「船たで場」が少なかった。
兵庫のせまい「船たで場」が予約でいっぱいの時は、海向こうの讃岐(香川県)の多度津まで「船たで」に行くことになる。
船舶の世界において、多度津は田舎ではない。船大工などもむしろ兵庫より人数が多く、腕のきこえた者も少なくなかった。
多度津(讃岐)にて
嘉兵衛が多度津で、「船たで」の作業を監督していると、隣の「船たで場」に、兵庫の廻船問屋船が「船たで」をしていた。
嘉兵衛が「船たで場」からみていると、大柄な男がこちらへ近づいてくる。
御影屋の「簾がこい」に入った。松右衛門旦那であることはまぎれもない。
松右衛門旦那は、「簾がこい」から出てきて、嘉兵衛に近づいてきた。
嘉兵衝は、あわてて船の上から降りてくると、松右衛門旦那のさびた声が耳にとどいた。
松右衛門旦那は、嘉兵衛に声をかけた。嘉兵衛はすこしあがっていた。
人間としての品格が、いままでみたどの人物とまるでちがっていた。
やがて風むきが変わって「船たで」の煙がただよいはじめたので、松右衛門旦那はもどっていった。
その夜、嘉兵衛は、松右衛門にご馳走になった。
嘉兵衛は「松右衛門さんが、目にかけてくれている」と思うと、震えるような嬉しさを感じた。
*挿絵:高田屋嘉兵衛・小説『菜の花の沖(四巻)』カバーより