電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
四十坂
大正時代に身延道から但沼を経て両河内・西河内に入る道ができる以前は、庵原、伊佐布、吉原と山へ分け入り、四十坂を通って布沢村へと抜ける道が用いられており、武田信玄が駿河に侵攻するために拓いた軍用道路だとの言い伝えがある。布沢川沿いにさかのぼり、四十坂を経て吉原に抜けてみた。
|布沢川上流、四十坂の始まり|2012年8月22日|
山梨県内にある、やはり武田の軍用道路とされる棒道は、信玄が拓いた証拠とされる古文書に偽書説もあるらしい。四十坂も本当に信玄が拓いた軍用道路かどうかはわからないが非常に巧妙に作られた道で、「真夏でも汗をかかずに山越えができる」という言い伝えほどではないにせよ、おんな子どもや重い荷を背負った旅人にも、重宝した道だったのだろうと思う。
|四十坂のつづら折れ|2012年8月22日|
四十坂に似た数字を含む地名を、武田の勢力が及んだ地域から拾ってみると、二十曲峠(にじゅうまがりとうげ)が山梨県都留市、四十八曲峠(しじゅうはちまがりとうげ)が長野県千曲市、十三曲峠(じゅうさんまがりとうげ)が岐阜県高山市、そして四十一坂(しといちざか)が静岡市葵区にある。四十坂はいわゆるつづら折れの山道であり、つづら折れを九十九折と書くように、四十は折れ曲がった数をあらわしていたのではないかと思う。数は数え損ねたけれど、曲がった数の実感と語呂が、四十坂と呼ぶに相応しい気もする。
|四十坂途中にある古い石積み|2012年8月22日|
|誰ともすれ違わなかったが、道はよく踏み固められている|2012年8月22日|
|坂が終わり尾根道となる|2012年8月22日|
|目印になりそうな古木があり、吉原側からの四十坂入口になる|2012年8月22日|
つづら折れの道が尽きると尾根伝いの道となり、やがて舗装された道にぶつかり、トンネルを抜けて坂道を下ると吉原に出る。吉原からのバスが出てしまったあとだったので、伊佐布、庵原を抜け、清水区庵原町1番地のJA清水まで歩いてみたら3時間ほどだった。寄り道をせず一目散に歩いたら、JA清水から布沢自治会館まで2時間半もあれば歩けるのではないかと思う。これはいろいろと大変なことだ。
|四十坂を登るとあっという間にこんな高い場所へ|2012年8月22日|
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