白鬚神社と海岸寺

2017年7月28日
僕の寄り道――白鬚神社と海岸寺


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朝鮮通信使(明暦通信使)を迎えるため薩埵峠を安全に越える峠道が東海道にひらかれたのは1655(明暦元)年で、いま東海遊歩道の一部になっている中道がそれにあたる。

薩埵峠を越え中道をゆるゆると進み、往還坂を下って興津方向に向かうと白鬚神社駐車場が左にあり、そこが白鬚神社の裏手になる。白髭神社もまた急峻な山上にあり、薩埵峠越えの疲れもあって60度近い角度の石段を登れないので、脇の女坂から登ってみた。

社の左に白い樹脂製の箱が置かれており「白髭神社の歴史です。ご自由にどうぞ」と書き添えられてA4サイズ3ページの手づくり解説書が入れられていた。一部いただいてコピー代を賽銭箱に入れておいた。

由比から興津にかけては海岸沿いの急斜面に60度近い急な石段のある神社がたくさんある。見つけるたびに汗をかいて登ってみたが、波除けや波切りなどの異名を持つものが多い。この村でも元禄地震(1703)の際に、村人はここに登って津波から逃れたと「白髭神社の歴史」に書かれていた。


白鬚神社南西に100メートルも行かない場所に観音山海岸寺がある。朝鮮通信使が江戸からの帰路、増水した興津川の川止めにあって滞在し、一行の中にいた紫峰が「海岸菴」と揮毫してのこしたものだという。


この時の通信使滞在は1636(寛永十三)年の復路というから中道開通の前になる。この頃の通信使は海岸寺、白鬚神社前を通過し、親知らず子知らずの異名を持つ、海岸沿いの下道を通っていたのだろう。


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