◉「二代目清水次郎長像と清水市公会堂のレリーフ」補遺

2021年1月2日
◉「二代目清水次郎長像と清水市公会堂のレリーフ」補遺


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戸田書店発行の郷土誌『季刊清水』53号(2020)に「二代目清水次郎長像と清水市公会堂のレリーフ」と題して原稿を書かせていただいた。

「静岡県貿易館と清水市公会堂の合同建築物(このあとは清水市公会堂とだけ記す)は、相生町と旭町にまたがる地に建てられ昭和26年(1951)8月に竣工した。面積429坪余り、地上4階、正面にランドマークとなる地上7階の塔屋を持ち、公会堂としてはオーケストラボックスのある1階から4階まで合わせて647席の観覧席を備えていた。壁面上部には漆喰による天女のレリーフが施され、制作は二代目次郎長像の作者でもある堤達男によるものだった。」(戸田書店『季刊清水』53号)

清水市公会堂には昭和49年の春に一度だけ入ったことがあり、大学進学が決まり、清水市の企業団体が設立していた奨学金制度の申し込みに行ったのだった。

清水市在住で87歳になられるという男性が、『季刊清水』を読まれて手持ちの資料を送ってくださった。その中に昭和55年2月8日の新聞切り抜きがあり、

移転先決まらぬ戦後復興の象徴
清水市役所別館の大壁画彫刻
いつまでも残して
制作者の堤さん
「塗り替えればまだ十分映える

という見出しがつけられている。

読んでみるといろいろと面白い情報が含まれている。
この大壁画は縦八メートル横十メートルの大きさがあり、タイトルは「女神三神像」だという。昭和42年に市民会館(桜ヶ丘)ができて劇場としての役割を終えて閉館、47年には県貿易館も移転し、その後は市役所別館として市教委などが使用しており、だから自分は奨学金申請のためにここを訪れたのだった。

49年に奨学金をもらい53年に無事卒業したが、その清水市公会堂の解体が55年度から始まる予定で、壁画保存の見通しが立たないというのだ。記者は作者の堤達男氏に取材しており当時は61歳で西伊豆在住だった。

吉川弘文館『清水市史』第三巻六三一頁には次のように記されている

「壁面の漆喰いのレリーフは移設保存も考えられたが痛みがひどく、惜しまれつつ解体された。」(原文ママ)

送っていただいた取材記事には意外なことが書かれていた。鏝(こて)絵職人入江長八を敬慕されていたと思われる堤達男氏なので、漆喰の壁画と聞いて完成間近の清水市公会堂の壁面に足場を組んで制作にあたる氏の姿を想像していたのだけれど、なんとレリーフはコンクリート製で、六枚に分割することができ、西伊豆町仁科のアトリエから船に積んで運ばれ、清水市公会堂の壁面にボルトで固定し、白いペンキを塗って仕上げられたのだという。ということは取り外して移設すればよいわけで、だから
「塗り替えればまだ十分映える」
とおっしゃったのだろう。

「かつて駿府城公園内にあった「やすらぎの塔」は戦争で犠牲となった学生の慰霊碑として、遺族らの寄付で堤達男制作により昭和33年(1958)に建立されたものだった。地震で破損してしまったが、コンクリート製だった像の復元を目指す運動が起こっている。」(戸田書店『季刊清水』53号)

「やすらぎの塔」だけでなく、清水市公会堂の「女神三神像」もまたコンクリート製だったのだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )
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コメント
 
 
 
グリル (はやし)
2021-01-04 01:49:39
 かつて貿易館の一階には「グリル」があった、ということをこちらにコメントさせて戴いたことがあったでしょうか。昭和34-5年頃、家族の何かのイベントの時に、緊張しながら食事に行ったことを思い出しました。
 
 
 
Unknown ()
2021-01-04 06:32:41
グリルの話は初めて聞いたような気がします。あるいは忘れてしまったか。
なるほどハイカラな場所だったのですね。
実家片付けをしていたら、伯母がこの公会堂の楽屋に近江俊朗を訪ねたときの写真が出てきました。
 
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