香木穴(かぎあな)の石垣

2017年8月23日
僕の寄り道――香木穴(かぎあな)の石垣


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香木穴の集落内を歩いたら消防団の倉庫があり、隊員の名札があるので数えたら望月姓が三分の二を占めている。信濃国の佐久郡望月地方を本貫地とした望月氏が滅亡したのち、子孫が甲斐国南部の河内領や静岡県富士市から静岡市清水区あたりに身を隠し移り住んだと言われているけれど、このあたりも望月さんが非常に多い。

 

 昔から甲州には、望月、深沢(昔はみさわと云った)、佐野、馬の糞といわれるほどこの三姓が多くそして望月と深沢は信州、佐野は群馬県がその発祥地と言われる。
 由比町でも望月姓が圧倒的であるが、その時代差と、本系筋傍系筋甲州からの移住筋、従者筋等数流がある。
 北田の望月氏は、信州望月城主の第六男が北田へ移住したとの説があるが、之は嘘で望月城と云うのは天正十年(一五八二)七月、徳川勢によつて攻められて落城し、望月氏は越後方面へ避難した史実があるのだから、望月氏の本系ではあっても信州の豪士の八男であつたであろう。
 初代の望月八郎左衛門勝命と云う人は、元禄十年(一六九八)頃、信州望月村から多勢の従者を連れて由比郷に遷徒したことが正法寺の過去帳によつて知られている。そしてその初代が醸造業を開業されたことも明らかである。
 最初から北田の殿様格であつた。(『由比町報』昭和30年4月1日)

由比町の戸数2696戸のうち望月姓を名乗る世帯491戸、そのうち入山が120戸(昭和35年)
「但し、移住に際して異姓の従者、豪士級の縁組に、新婚や花嫁について来た異姓の従僕も、自然にその主家について同姓し、水呑百姓として、その地におちついた事も、勘定に入れておいて良いのである」(手島日真)

望月さんばかりであることには慣れているので驚かないけれど、集落内を歩いたら斜面に建つ家々の基礎となる石垣積みが見事なのでびっくりした。山間地の斜面に石垣積みは欠かせないので、永年にわたる地道な苦労の結果として素朴な石垣積みを見ることは多いけれど、ここの石垣は城郭の石垣のようにきちんと施工されており、緻密に作られた山城の中を歩いているような気分になる。

山里で誇り高き望月性を名乗り続ける気概をあらわしたものであるにせよ、よほどの技術を持った人びとが、かなりの計画性をもって作り上げたとしか思えない。ひなびた山奥の集落にとって、かなり不釣り合いに感じたので驚きながら感心した。

余談だけれど清水区大内にある保蟹寺(ほうかいじ)にわが家の墓はある。檀家総代は設楽さんで、墓地も設楽さんの墓が多い。設楽姓は三河由来だといい、三河より移り住んだ設楽氏が開いた寺だという。数年前に寺の駐車場を作った際に、檀家の設楽さんたちが業者に頼むまでもなく、力を合わせて石垣を積んでくれたという。

住職は「この辺の人は石垣を積むのが得意なので」とおっしゃっていたが、どうして石垣積みが得意なのかの理由を聞き損ねた。この寺は鎌倉時代あたりの古道である山沿いの東海道に面しており、実は高部・押切・能島あたりを歩くと、道端の古い石垣が非常にきちんと積まれた形跡があって興味をひかれることが多い、そんなこともあって石垣積みの技術というものに関心がある。ここ香木穴の石垣についてもちょっと調べてみたい。

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