庵原の杉山青年夜学校

2016年9月29日
僕の寄り道――庵原の杉山青年夜学校

 


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郷里静岡県清水庵原地区でいまも「しんめいさん」と呼ばれて語り継がれる殖産家がいて片平信明(かたひらのぶあき1830-1898)という。貧しい山村では油桐(あぶらぎり)別名毒荏(どくえ)と呼ばれる木を育て、実から油を絞って売ることでかろうじて生計を立てていたが、油の輸入で売り上げが減って村は困窮した。

名主であった片平は茶の栽培をすすめ、一方自宅納屋の二階で青年の夜学校を開いた。明治9年柴田順作の指導で杉山報徳社を設立、明治14年には柑橘栽培を導入して産業の振興につとめ、明治21年夜学校を建てて青年勉学の道場とした。山の人々が街場の人に搾取され続けないためには、勉学こそが生きるための武器であった。

編集委員をしている戸田書店発行『季刊清水』の取材のため、9月29日(木)その杉山青年夜学校を見に出かけた。清水駅前9時30分発のしずてつジャストラインバス庵原線吉原行きに乗り杉山バス停で下車すると、老人憩いの家として活用されている校舎は川沿いの道路脇にあった。

杉山青年夜学校。左端、二宮金次郎像の後ろにあるのが油桐

バス停の時刻表を見ると吉原終点で引き返してくるバスは10時25分に杉山を通過し、それを逃すと14時20分まで清水行きバスはない。あわてて校舎周りの写真を撮り、清水駅売店で買った稲荷寿司で遅い朝食にした。いまだに報徳思想を忘れない庵原の人々のような二宮金次郎像があり、その見つめる道の先へと無人でやってきたバスに乗って引き返した。


コメント ( 4 ) | Trackback ( )
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コメント
 
 
 
Unknown (mcberry)
2016-10-01 08:22:11
次郎物語第5部の中にありますね。久しぶりに武蔵小金井の下村湖人記念館(浴恩館)に行ってみたくなりました。以下「青空文庫」より抜粋

第二日目は、報徳として全国に名のきこえた、同県の杉山の見学だった。杉山は、歴史と伝統に深い根をもち、すでに完成の域にまで達しているという点で、新興革新の気がみなぎっているH村とは、まさに対蹠的だった。明治維新ごろまでは乞食とまでいわれた山間の小が、今では近代的な組合の組織を完成し、堂々たる事務所や倉庫や産業道路などをもつに至ったその過去は、塾生たちにとって、まさに一つの驚異であった。
 かれらはめいめいに自分たちの村の貧しい光景を心に思いうかべながら、この富裕なをあちらこちらと見てあるいた。ほとんど平地にめぐまれないこのの人たちは、過去数十年間の努力を積んで、山の斜面を残るくまなく、茶畑と蜜柑畑と竹林とにかえてしまったのである。その指導の中心となったのは片平一家であるが、すでに七十歳をこしていると思われる当主九郎左衛門翁の、賢者を思わせるような風格に接し、その口から報徳社の精神との歴史とをきくことができたのも、塾生たちの大きな喜びであった。
 
 
 
次郎物語 (石原雅彦)
2016-10-01 08:35:48
次郎物語は小学生時代にペギー葉山が主題歌を歌ったテレビドラマでしか接したことがないのでびっくりしました。ありがとうございます、読んでみます。

能島の叔父が倒れたので会いに行ったら、押切のらいみんさんが別の店になっていてびっくりしました。
 
 
 
らいみんは (mcberry)
2016-10-01 12:49:39
一昨年でしょうか。奥様の体調不良のためと聞いています。娘が2年間バイトした店なので、私にとっても思い出深い店でした。閉店の挨拶の張り紙がすごい感動的、と娘に教えられたのですが、行ってみたらもう剥がされていました。内容を聞いておけばよかったです。
次郎物語については、普通の人は1部と2部までしか読まないようですが、私は後半のほうが好きです。
 
 
 
らいみん (石原雅彦)
2016-10-01 15:06:13
お気の毒です。
先日は鐘庵が閉まっていたので居抜きで入られた別の店に入ってみました。
人も変われば味も全く違うというあたりまえのことをしみじみ味わってきました。
 
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