郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来 「音水・引原」

2019-12-04 07:04:34 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「音水・引原」    宍粟市波賀町

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奥谷地区内

■音水(おんずい)
三宝山南東方、引原川の支流音水川流域。地名は、谷川の流れを挟んだ両側に山々がそびえ立ち、渓流の音が高いことにちなむ。

【近代】音水鉄山村  年未詳~大正6年の奥谷村の大字名。蹈鞴製鉄の従事者が集住するいわゆる山内集落で、現在も残る金山(かなやま)神社(カナイゴサンとも称される)を中心に六十数戸の集落があったという。操業時期は墓碑銘などから江戸時代にさかのぼるが、明治期に入って山林が国有林化され衰退した(波賀町誌)。

 年未詳の御領分諸座方請分(下村家文書)に、寛文13年(1673)から延宝4年(1676)まで竜野屋 弥左衛門が「引原中音水炭山発鍛冶三分」を請負ったとある。また「銀九十匁 引原内 日ノ原山畑 音水木地挽九郎兵衛請る」と記され、音水に木地屋が存在していたことが知られる。なお現波賀町北部には江戸時代に多くの木地屋が居住していた【波賀町誌】。大正6年音水となる。

【近代】音水 大正6年から現在の大字名。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。
 



■引原(ひきはら) □近代 一部が日ノ原になる
揖保川の支流引原川流域。地名は当地一帯にはブユ(ブト)が多く、漢字では蟆と書き、蟆は「ひく」とも読むことから、ブユの多い野原が転じて引原なる。

【中世】蟾原荘 平安末期に見える荘園名。播磨国宍粟郡のうち。宝永5年(1708)「宍粟郡誌」にみえる引原荘にあたり、揖保川の源流の1つ、引原川の上流一帯。現在の波賀町北部を占める地域に成立した荘園。保元3年12月3日の官宣旨に、石清水八幡宮の宿院、極楽寺領として、「播磨国 蟾原庄・松原荘・赤穂荘」と見える。この文書によれば、代々の別当・院主が恣意に妻子眷属へ荘園を譲渡したため、所領が八幡宮の支配から離れていく傾向が強くなった。これに歯止めをかけるべく、法印勝清が官宣旨を乞うたようである(石清水文書)。元歴2年正月9日付けの源頼朝下文には、八幡宮領の荘園一つとして魚吹蟾原別官を挙げ、「右、同伴庄々者八幡宮寺住吉古神領也。而近年之間、依平家追討、守護武士等、或猥抑留御年貢、或宛催兵粮米」とある(同前)。官宣旨おいても八幡宮領であった魚吹別館と一括されているが、当荘でも武士による※蚕食が行われていたものであろう。南隣の伯可荘も11世紀はじめまでに石清水八幡宮領になっていたが、上記の官宣旨や頼朝下文にはみられない。両荘の関連については未詳。その後の伝領についても明らかではない。なお、文正元年10月5日と見え(八坂神社文書)、引原はあるいは引原荘(蟾原荘)を指すものと思われるが、不詳。
※蚕食(さんしょく):蚕が桑の葉を食すように、他の領域を片端からだんだんと侵していくこと。

【近世】引原村 江戸期から明治22年の村名。宍粟郡のうち。江戸期は曳原村とも書いた。幕府領。神社は、八幡神社・大森神社。寺院は、高野山真言宗長源寺。明治6年同寺内内に引原小学校開校。




【近代】引原 明治22年~現在の大字。はじめ奥谷村、昭和31年からは波賀町の大字。昭和17年一部が「日ノ原」となる。奥谷村の最大の集落であったが、昭和33年引原ダムの竣工に伴い一部が湖底に沈む。水没移転家屋74戸で、主に竜野市周辺に移住した。ダムの総事業費は18億円。引原ダムは洪水調節、発電、工業用水、および灌漑用水 確保の4つの目的を持った多目的ダムである。
「すすむ世のためとて あはれさざ波の 底に消えぬる引原の里」という当時の知事阪本勝の歌碑が湖岸に建てられている。






◇今回の発見
・波賀町北部の山岳地帯には木地師が多く住み着いていた。ロクロを巧に駆使して、腕・盆・鉢などを作った。豊かな山河が、生業を支えていたようだ。
・今から半世紀前、引原ダム(音水湖)の湖底に集落74戸が消えた。その後創作された「湖底の笛」(S61.8)の哀愁漂う歌の音(ね)が人々の記憶を呼びさます。


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