ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

グリモーの実演

2005-07-06 11:18:16 | 音楽あれこれ
昨晩はサントリーホールでピアニストのエレーヌ・グリモーのリサイタルを聴く。リンク先のサイトやチラシなどを見るとなかなかの美人である。いや、別に美人だから聴きに行ったわけではない。数年前にこのホールで演奏したラヴェルの協奏曲が非常によかったという印象があったので、ならばリサイタルはどうかと思い出掛けたのである。

上記リンク先で演奏を試聴することができるが、実際の演奏とはいささか違う。この人、左手の低音が異常に強い音を出すのだ。ことによると左利きかなと思って、マネジメントに尋ねたらそうだという。左利きが悪いというのではない。左手の音が強過ぎて右手の高音が聴こえないのである。プロならばこれぐらいのことに気づくはずだと思うのだが、なぜそんな基本的なことがわからないのだろうか。いや、本人が気づかないのであれば、せめて取り巻きの連中が忠告してやるべきじゃないのかな。冷たいぜ、みんな。

ハッキリ言おう。グリモーはまだ2流である。いくら美人であっても演奏は正直なのだ。クラシック音楽が低迷している今日において、レコード会社がヒーローもしくはヒロインを生み出したい気持ちは痛いほど分かる。でも、グリモーにその役割を負わせるのは酷な気がする。

そもそも、演奏に特別個性があるわけじゃないし、特別な音色をもっているわけでもない。ショパンの《葬送行進曲》なんて、思いつきで弾いていると言われても仕方あるまい。主題が再現される時に、なぜカデンツのエネルギー法則を無視した強弱を付けるのか。

ショパンは主題の反復をする際、まったく同一の反復をすることはない。かならず異なる装飾音を付けて変化を与える。しかし、それは同一主題の反復を避ける手段であって、カデンツの問題とは違うのだ。そのあたりの基本的なことも、グリモーにはわかっていないらしい。

さらに、ある意味でどうでもいいことだが、ミスタッチが多すぎる。確かに1流といわれる演奏家だってミスタッチぐらいはする。しかし、彼らはそのミスタッチをうまく誤摩化す術を持っている。だから彼らがミスをしてもさほど気にならないのはそのためだ。ラフマニノフの《ソナタ第2番》は、オリジナルの1913年版と1931年版をミックスしたもので演奏していたが、これだって相当なミスタッチをしていたはず。ただ、この作品はペダルを踏めば曖昧にできるという「利点」があるので、さほど気にならなかったのは救いというべき。でもワシは内心ヒヤヒヤだったけど(笑)

1969年生まれというから、そろそろ個性が固まってきてもいいころ。まだまだ1流の壁は遠いね。それにしても、なぜグリモーがサントリーの大ホールで、フレイレが紀尾井ホールなのかが疑問である。キャリア的に見たら、どう考えても逆じゃないかと思うのだが…。
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