ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

余裕を見せたらミューズは逃げる

2006-09-17 04:58:56 | 音楽あれこれ
先週は仕事と関係なく5つの演奏会を聴く。さすがに週5日も聴くと耳が疲れる。しかし、それもマネジメントとの「しがらみ」があるので仕方がない。ホント思うのは、くだらない「しがらみ」とは無縁の生活をしたいなということ。そうはいうものの、ワシはフリーで活動しているからまだ自由なのかもしれないが。

それはともかく、先週聴いた演奏会のなかで面白いことに気づく。ある独奏会での話。ごくフツーな表現を使えば、この演奏会は集中力に欠けるものだった。仕事で聴いているのでもないのに、ついその原因はどこにあるのかと考えてしまう。習性とは恐ろしいものだ。

しばらくして、あることに気づいた。この奏者、演奏中にしばしば周囲を見るクセがある。まあ、それは別に珍しいことじゃない。多くの演奏家にもそれは見られることだ。

ところが、この奏者に限って言えば周囲を見る瞬間に音楽から魂が抜けてしまうのである。こんな表現はヘンだなと思うけれど、あの瞬間を表すのに他の言葉はどうしても思いつかない。ヨソを見ずに音楽に対峙している時はなかなかイイ音を出すし、説得力もある。なのにフッと周りに視線をやった瞬間、音はヘタり、ガタガタになってしまう。

その現象がひとつの曲のなかで何度も出てくる。これでは聴いているほうも集中できないし、演奏で説得されることがないのも当然。この人、本来は良いものをもっているんだろうが、なぜ自らの才能を放棄するようなことをするのか。ミューズの神は泣いてますぜ。

思うに、原因は自意識過剰なところがあるせいなのだろう。「自分はこの作品を余裕で演奏してますよ。ほら、よそ見もできるでしょ?」ってな雰囲気が伝わってくる。周囲を見る視線は音の響きを確認しているというのではない。いかにも余裕ぶっこいてますって感じ。

そういう邪念をもった瞬間にミューズは逃げるもの。前に書いたことがあるかもしれないが、ダメな演奏家であればあるほど音楽以外のところに気が回るのだ。たとえばステージ上での歩き方や立ち居振る舞いがやたらにステキだったりする。

でも、実際に演奏を始めるとほとんどはダメダメ。これは一体どういうことなのか? 私見によれば、彼らは自分の演奏に自信がないので、せめて演奏以外の部分だけでも立派に見せようとする心理が働くのに違いない。だから立ち居振る舞いは妙に立派になる。つまりそれらの行動は意識的に行なわれている証拠なのだ。このことを知っていれば、初めて聴く演奏家の場合も、その立ち居振る舞いを見れば音を聴かずともその実力は大体わかる。

逆に優れた演奏家は演奏以外のことなんてどーでもよいという態度。ぶっきらぼうにノシノシ歩いて出てくる奴がいるかと思えば、自信なさげにヨタヨタ出てくる奴もいる。ステージに注目しているほうからすると、「大丈夫か? こいつ」と思えるような奴ほど驚くような演奏をするから面白い。

たぶん彼らにしてみれば、立ち居振る舞いのことなんて眼中にないのだろう。彼らの頭にあるのは、ただ演奏のことだけ。颯爽とカッコよく登場するなんて、これっぽっちも意識にないはず。

人前に出る商売だから、彼らがナルシストであるのは当たり前。それは職業上不可欠である。ナルシズムを感じるのは自らの芸術に対してであれば何も問題はない。しかし、そこで無意味なナルシズム、すなわち「見られている自分に酔う」という邪念を抱いた瞬間、ミューズは非情にも彼らを見放すのだ。それが演奏中であってもなくても…。
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