メザシと麦飯が夕食だと言われた元経団連の会長、土光敏夫(1896-1988)のことでは、もちろんない。ここでご紹介するのはフランスの作曲家アベル・ドゥコー(1869-1943)である。「誰それ?三省堂の『クラシック音楽作品名辞典』にはドゥコにも出てないよ?」なんてさぶいギャグを言ってる場合じゃない。とにかくハイペリオンからリリースされたのだから。
収録されているのはドゥコーの4曲からなる《月の光》とデュカス(1865-1935)の《ピアノ・ソナタ》。こんなマイナーな作品を録音するといえば、そう、アムランしかいない(笑)うーん、「すき間商売」してるねえ。
すき間商売といえば何といってもハンス・カン先生。ほかのピアニストが弾かない名曲を彼はほとんど録音していた。だからレコード会社で全集モノのような企画をやる場合、必ずといってよいほどカン先生にご登場いただくことになる。
もっとも、演奏のクオリティはガマンしなければならない。ある企画でどうしてもバダジェフスカ(1834-61)の《乙女の祈り》を入れなければならなくなった。そこでマスターテープを調べていたらカン先生の名前を発見。よしよし、これを使わせていただこう。そこまでは良かった。
驚いたのはカン先生の《乙女の祈り》の録音には少なくとも3種類あったこと。念のため全部の録音をチェックしてみた。すると、さらに驚愕の事実が!
何と、どれもちゃんと弾けてないのだ。ご存知のようにあの曲は変奏曲形式で書かれており、頻繁にトリルが現われる。でも一番目立つトリルがどれも千鳥足であること。おまけに頭を抱えてしまったのは3つのヴァージョンが全部異なる場所でコケていたことなのであった。うーむ、ダメじゃん。
この事実を知ったディレクターから「いっそのことアナタが弾いてみたら?」という提案とともに「カンス・ハン」という芸名までいただく始末。もちろんそれは丁重にお断りしたが…。
いやいや、だいぶ脱線してしまった。もちろんアムランの演奏に千鳥足なんて存在しない。テクニックには素晴らしいものがある。カン先生とは天と地の違いだ。
しかし、いくら技巧があっても作品そのものが地味だとどうにもならない。だからこのCDはマニアにはヨダレものであっても、一般にはあまりオススメできない。だって、つまんないんだもの。
それにしてもアムランってライヴで聴いてもCDを聴いている通りの演奏なんだよな。良く言えば裏切らない演奏だけど、悪く言えば別にライヴでわざわざ聴かなくてもいい演奏なのだ。ライヴで臨場感のない演奏ってのも珍しいけどね。超然としているというのか、何というのか…。
収録されているのはドゥコーの4曲からなる《月の光》とデュカス(1865-1935)の《ピアノ・ソナタ》。こんなマイナーな作品を録音するといえば、そう、アムランしかいない(笑)うーん、「すき間商売」してるねえ。
すき間商売といえば何といってもハンス・カン先生。ほかのピアニストが弾かない名曲を彼はほとんど録音していた。だからレコード会社で全集モノのような企画をやる場合、必ずといってよいほどカン先生にご登場いただくことになる。
もっとも、演奏のクオリティはガマンしなければならない。ある企画でどうしてもバダジェフスカ(1834-61)の《乙女の祈り》を入れなければならなくなった。そこでマスターテープを調べていたらカン先生の名前を発見。よしよし、これを使わせていただこう。そこまでは良かった。
驚いたのはカン先生の《乙女の祈り》の録音には少なくとも3種類あったこと。念のため全部の録音をチェックしてみた。すると、さらに驚愕の事実が!
何と、どれもちゃんと弾けてないのだ。ご存知のようにあの曲は変奏曲形式で書かれており、頻繁にトリルが現われる。でも一番目立つトリルがどれも千鳥足であること。おまけに頭を抱えてしまったのは3つのヴァージョンが全部異なる場所でコケていたことなのであった。うーむ、ダメじゃん。
この事実を知ったディレクターから「いっそのことアナタが弾いてみたら?」という提案とともに「カンス・ハン」という芸名までいただく始末。もちろんそれは丁重にお断りしたが…。
いやいや、だいぶ脱線してしまった。もちろんアムランの演奏に千鳥足なんて存在しない。テクニックには素晴らしいものがある。カン先生とは天と地の違いだ。
しかし、いくら技巧があっても作品そのものが地味だとどうにもならない。だからこのCDはマニアにはヨダレものであっても、一般にはあまりオススメできない。だって、つまんないんだもの。
それにしてもアムランってライヴで聴いてもCDを聴いている通りの演奏なんだよな。良く言えば裏切らない演奏だけど、悪く言えば別にライヴでわざわざ聴かなくてもいい演奏なのだ。ライヴで臨場感のない演奏ってのも珍しいけどね。超然としているというのか、何というのか…。