湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

F(?)さんと、ぱれいしあさんのご質問、遅ればせ回答です

2004-09-21 04:46:21 | 不登校
 昨日は本業の関係の溜まった宿題をこなしていました。それは提出レポートをまとめて返す家庭訪問。私の通信塾は湘南にありながら、塾生の大半が都内の子たちなのです。以前身をおいていた補習塾の場所が大田区と品川区の境にあったこともあって、その塾の関係や知り合いから口コミで集めたため、大田・品川・世田谷の子が多いのです。

 昨日は家庭訪問。大井町・長原・上野毛をまわってきました。もうひとつの仕事の大検予備校の方も町田にあるので、帰りに立ち寄ったため神奈川の外周をぐるりまわってきた感じです。しかし、生業の方では、「まずはあせらず」といいつつ、進学をにらみ塾生を教科学習に誘導していくのですから、世間の常識の力で逆に創造力を霞ませてしまうこともあるのです。親の要望、「必要としての進学」指導となるわけです。この「あせらず」というところに真実と虚偽が重なります。

 ぱれいしあさんから、質問をいただいたとき、様々な事が重なっていたのですが、そのひとつにハンドル名の私信が届いていたのです。内容はSOFの活動への疑問でした。その方は内容から推測するに、以前、明学のLD学会で名刺交換した児相の方だろうと思うのですが、フリースペース論にも共通する「自己治癒力を信じる」という形からの提言でした。

 性急に社会に当てはめる試みは、学校から距離を置いている子を、再度泥沼に導く悪循環の道だから、そっとしておいてあげるべきではないですかという批判でした。子どもには様々な事情があって、家族や当人しかわからないことも多いのだから、見守るべきでしょうという論でした。治癒には絶対的に時間が必要であり、見守るべきではないですかという、お仕事の守秘義務の範囲ぎりぎりの実例を交えたお話でした。経験の深い方の語りは場面がありありと浮かび、その子の体温すら伝わってくるものです。

 その論旨とは別に私はAという子の顔を思い出していました。昔、塾を開いていた頃、来塾した子は近所の小1から高2までの幅の子がいました。高3は予備校に行き自分でやれと押し出し、時々ぶらりとやってくる子の相談に応じる方式で運営していたからです。つまり通塾期間が長い子だと、12年を越す付き合いになるのです。

 教えている机の下で私の足をこつこつと蹴り続けていた幼い子が、塾のトイレでタバコを吸っているのですから、情もうつります。その目でみれば、「休みなよ」というのは真です。

 しかし、人は多面的なもの。近所の喫茶店で今日話した子は家では無気力そのもので、父親と話すと嘔吐してしまうのです。社会の生存競争の説教臭が匂うからです。ところが教科の話を離れて飼い犬の話になると、人が違ったように能弁になり、J(♂)との出来事を話します。それだけではなく、飼い犬のブリーダーの仕事の面白さと血統という発想のひどさ、一見矛盾していることを滔々と述べて、いつものコースでは獣医になりたいのだという話で時間切れになるのです。SOFは、家にいる子の情熱、知の水脈に出会いたいと思うのです。

 このとき面談する側は、獣医になるには専門知識が必要で大学進学が不可欠という具合に畳み込んでいくわけですが、その論では彼を突き落とした学校の集団は手付かずで生き残るわけです。「怪我と社会復帰」という構造に結局は流し込んでしまう。ひとがどう生きるかということは、社会にどうはまるかということと同義にされてしまうわけです。

 彼が滔々と語る世界の色艶やパッションは、先送りの構造に封じ込められ、組み込まれてしまいます。子どもを待つといいながら、送り出す先は結局同じところ。私はもっと大きな自分の足で歩く、まわり道を提供できないかと思います。インターンシップ的な話もそうだけれど、もっと関連のある分野への知の散歩をしてもいいと思うのです。しつらえた時間を捨てたのだもの。そういう立場だからこそ、見えるものもあるはずです。

 不思議なことにその辺の「知」の話になると、理想論とか現実論とかいう話が持ち出されて、まなびとは習得でありそれは社会に準備された選択肢がすべてであるという発想が押し出されてくるのです。そこにはゴールまで準備されています、資格です。ここで私は彼女との議論を断ち切りました。正体見たりだったからです。

 ただ対話の中でざっくりとささっている言葉は、○○くんは○○くん、「生徒」ではありませんよねという言葉。私にはふいによみがえった、足元の小さなつま先の感触のことでした。ふいに思い出された記憶にどぎまぎしながら、生徒とくくったことはないぞと思いつつ、それは同じ結論しか持たないあなたにも、そっくりお返ししますと話をくくったのでした。(授業の中では「生徒」ですという論もあります。これについては後でちょとだけ述べます。)

 私の書いているまなびの世界は、頂上のあるような世界ではありません。茫漠とからみ拡がっていく世界の入口なのです。この話が三十年前だったらどうでしょう。個人の生活する時間と空間の制約、生活圏とでもいいましょうか、その中からの社会の受け皿探しは無謀に近かったでしょう。もちろん、そこを突き抜けた人たちも知っています。そこから比べたら、テレコムの発達した現在では、雑音をえり分ける力さえあれば、細々となりに先方とつながれるのです。しかしそれよりも大きな可能性の果実が育ちつつあります。それが目的を同じくするひととの出会いです。わたしがブログを使いながら、ぱれいしあさんのような方と出会えるのがいい例です。

 彼が獣医を目指すなら、自分なりにHPを作ってみます。掲示板をひらきます。しかしこれは土台にすぎません。オンライン情報を集めたり、地域図書館をさぐったりします。これとて楽屋裏の準備作業のようなものです。HPと掲示板があふれかえっている現状では、彼はそのままでは埋もれてしまうでしょう。雑踏の中で人と出会う知恵が要るのです。それは自分から光ること。

 犬を趣味とする方々のHPをまわると、希に一味もふた味も違っている表現をしているひとに出会います。犬を商売にしているひととはさすがにオンライン上では個人的に出会うことはまずありませんが、これはショップで店員さんと話しこむと道が開けてきます。獣医の卵の方のHPをさがすことや、獣医を育てる大学の研究室にHPから質問をする方法もあります。こういうことを繰り返していくと、その世界のジグソーパズルのピースが埋まるように、見えてくるものがあるのです。

 こういう出会いを使いながら、犬の健康についてHPや掲示板を作っていると、求める人が集まってくるものです。目的が鮮明であり、そこが貴重な情報と出会いの場であるという価値がみえれば、こちらが得ることの多い人が集まってくるものです。ここの過程は非常に経験的なものです。

 ここで作られた人の拡がりは、大学進学をし獣医の資格を取る場合でも、その技能の受け皿が見ていることですし、大事なことは他の視角をも取ることができるという経験の広がりを持つことができます。

 こうした免許のようなものがない場合では、その広がりを仕事に結び付けていくことも、困難ですが可能でしょう。

 ここで私が、おそらくこの文章を読んでいるであろうFさんにまとめの意味をこめて書いておきます。ここで私が述べたものは、「職業人となることを目指す」まなびの一部分であるのだということであり、知をここに絞り込むのは間違いだということです。

 対話の中の違和感は、常にここをめぐっていました。私の足を探りながら小さな靴下の足で私を蹴り続けていた彼は専門学校を卒業し、就職後、一児の父となり社会人講座の学生兼講師となりました。しかし私が彼の足の感触を思い出したのは、彼が抱えあげていた子どもに蹴飛ばされていた、そのときの表情が素晴らしかったからです。彼の「まさぐり」を受けた感触は、家庭を設け社会人として自立したことを成長とする発想からは、はみだしてしまいます。A君が歩んできた人生の一角に私はいます。ただ進学に必要なことことより、余計なことを何十倍も持ちかけた困ったオヤジでした。しかし絆はむしろそちらの方にあるような気さえするのです。

 送り出すものの論理と、学ぶ者の論理をごっちゃまぜにしてはなりません。「立派に成長したなあ、これがまなびなのだよ」と勝手に相手を解釈するのは私の立場ではありません。どう私の世界を拡げていくのかということの相互のコンフリクトの中に、まなびを見ているのですから。

 ぱれいしあさん、お待たせでした。Fさんとの話は知に対する偏狭な常識をめぐる「型取り」から「拡張」へという話でした。(「模り」にあらず。)今、不登校・引きこもりを営む実践の圧倒的な多数は、「見守り」>「進学」という線上にあります。東京シューレの場合は、シューレ大学などのプロジェクト型のまなびの志向も始まっていますが、当人の「もうひとつの顔」を生み出すような積極的な実践は少数派です。

 この積極的な関わりが、傷ついた心への無神経な介入と解釈されたり、進学競争復帰のあせりからくる予行演習提言だとする警戒感が根強く残っています。

 前に書きましたが、登校拒否を考える会の成田合宿の中で森英俊さんが語っていたように「自由な空間もたいていの場合飽きてくるものです。そのとき、何かを好きになる。誰かとつながる、というプロセスの中で、人間は生きる道を見出すことが出来るのではないか。」と語っておられましたが、次のことをはじめたいという意思をもった子たちに語りかけているのです。

 このとき、彼らに理科を提供しますか、国語を提供しますか。分刻みの学校のなぞりの束縛からやっと解放されているので、ここは彼らの関心事や、私が知っている面白い世界の勧誘にそってプロジェクトをたてて行動しようと思うのです。東京シューレではサーキットを使ったり出かけたりしていますね。木幡さんところのジャパンフレネでは、夕張炭鉱に石炭を掘りにいくのだそうです。ここまで出来なくても、かの70年代アメリカ・フィラデルフィア市で実践された「パークウェイ・プログラム」やニューヨーク市の「シティ・アズ・スクール(CAS)」のように街を学校にしていくこともできるでしょう。実際上、フリースクールでは「体験学習」化した企画が日常的に行われるようになってきました。

 しかしSOFの学習は、その先を求めます。雑体験を脳の袋にためておけばやがて芽が出て花が咲くとは思わないからです。ぱれいしあさんが銀行貯蓄型というフレイレの紹介をされていましたが、それは工業化社会が人材育成に取り入れたフォードシステムの尻尾を引きずっているからです。まなびは再構成の中にあります。クリティカルな眼差しの中にまなびが生まれます。

 ですからパークウェイ・プログラムのようでありながら、意見交換や先達との共同行動を重視します。自分がそれをどう思うのかということを交流させていきます。四角四面の会議室論議を想像される方も多いと思いますが、輪座して話したっていいし、帰りの電車のボックス席の議論でもメールでもいいのです。そしてそれをざっとたどれるように文章化して、自分たちや関心のある他者・後から調べる人たちのためにフレネ式にDBを作っていきます。

 これはしんどい道ですから、出来るだけツールの力を借りたいと思います。

 私が「新しい」という言葉を使ったのは、実はご指摘のように1920年代から提唱されている実践でありながら、工業化社会の終焉という時代の転換期が後を追うように浮かび上がってきたことや、知識を状況と切り離して個人の脳内に蓄積する従来の学びモデルが、プロジェクトを遂行するという形の実践に横たわる知へとシフトしていくという転換を伴うものだからです。ですから理論の新旧でいえば80年近い歴史のつながりの中にあります。

 この辺のなぞりは、私は市井の実践者ですから、「拡張された学習」(エンゲストローム)あたりが包括的に語っていますので、詳細はそちらをご覧下さい。ヴィゴツキーの素案を発展させたものです。

 しかし、Fさんの質問は不思議な体験でした。たしかに私は匿名の実践を提案しています。まなびは公共的なものでありながら徹底して私的なものなのです。私と出会い通り過ぎていった子たちの顔や香りが爆発したかのように思い起こされたからです。プロジェクトのまなびは、お互いを理解(和解と同義ではない)し、知を分かち合うまなびです。そのことからすれば、小さな靴下の蹴りも、ハゲ頭の落書きも丸ごと抱え込まれた実践です。そのことからすれば○○くんのまなびも可能なことなのだと思います。


p.s. ぱれいしあさん、パンチの混乱を持ち込んですみませんでした。応答遅くなりましたごめんなさい。しかし時間的に限界です。より詳細を必要とされる場合は、ほんとうにどこかで会いましょう。今は繁華街の交通整理の巡査のような気分なのです。

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