湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

12/15 野人と空転(茅ヶ崎という閉塞性)/でも、やりましょう!

2012-12-16 05:38:34 | 引きこもり
2012/12/15 記
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活動を立ち上げるとき、気の知れた友人がある人は気がつかないかなと思われることがある。その仲間の自然律のようなものだ。災害関連活動では、地域集団のいわゆる「絆」であり、教育関連活動では「当人*家族*社会(学校)」という三項構造の拮抗という共通認識である。これらは一部であるが、その評価のあり方をめぐって、「常識」と「異端」という亀裂が走る。

特に業界とか組織というような、結束の強度の差こそあれ内部と外部の境界を持つものは、「常識」に「流儀」が加わっている。そこを客観視できる方か否かというところで、言葉は凍り意味を失う。

今日、翔の会の講演会に参加し、災害対策活動(あえて『ボランティア』と言わない。)の凡庸なあり方と、対象を「要援護者支援」と絞り込んだ活動と、それらを組織として経験を取り込もうとする意向との混濁した気分を私は味わってきた。

私は2000年の交通事故負傷を境に、活動実態のホームグラウンドを失い、再建のなかに活動を立ち上げ直してきた。教育活動としては、最悪の事件に断ち切られた自分のフリースクール志向の塾を閉鎖ののち、学力キャッチアップに強い関心のある某進学予備校と、在日外国人支援活動を行ってきた経営者の社会人の割合の多い塾の立ち上げに参加することができたが、事故中断。その後、今度は雇用関係のなかで職場に再参加したこと以外は、すべてを失っていた。2年間の入院生活や1年間の療養生活は、私にひととの出会いという偶然性の強い前提条件を、すべての活動の前提に錨のように覆いかぶせてきた。俗な言い方をすれば「浦島太郎、その後」である。

家族の介護という制約条件下、私は茅ヶ崎という地域に根ざすことを決めた。父が入所した今、その制約は緩和しているが、漂着地を失った言葉や、差別の軋みに耳をそばだて続ける限り、常識と流儀は前提にならない。自らの集団のひとのつながりに疑問をさしはさむ言葉は、常に組織の常識に弾かれてきた。

フリースクールを語るとき、第二の学校を主張することは、知のあり方を問う意味で、当たり前のことではない。知識という鋳型にはめこむことを、私は知の構造を知らぬものの論理と思う。学校という当たり前のことに異を唱えれば、接点が失せる。

災害ボランティアに「慈善活動と憐憫」を基礎にしないと語れば、多くの絆は断ち切られる。「外野応援活動」は、「自らの足元を見つめることのネグレクト」とか、「地域の絆=善は疑え」といえば変人でしかない。しかしここの常識は、極めてローカルな価値観だ。「共感」という言葉、「要援護者」というような「困難」打開が課題となるものに目を閉じないということに、こだわること。その視点からすると、今回の講演者は課題に何とかふれていたが、**氏は傍観臭が強かった。会全体に金魚すくいの水槽ごと棚に乗せた感があって、金魚を見ていないのだ。講師を実績メニューから選んでおり、現在の課題から選んだとは、とてもいえない状態、もっと焦点化した企画でないと、実をとることができないだろう。拮抗している前線、境界線の把握が活かされてくると、企画に命が宿る。

社会活動は、提案と立ち上げから始まる。既に流れがあって、その水を引きながら、支流を作り出していくというやり方は、水源のない私にはとれない。今ある「わーく」編集部のコアは、引きこもり青年のオンライン協力と、通過していく青年たちから成り立っている。予備校や塾も、「引き抜き禁止」というような労働協約があって、そこで知り合った若者と活動を立ち上げるわけにはいかない。その意味で既存の流れとその支流という活動の立ち上げ型は、私には意味をなさない。ならば「この指とまれ」型の活動、つまり「提案」の質を高めることに力点をおくことになる。

ところが受け手は、その中身より、誰が仕掛けているかということや、連携するメリットを背後勢力を読もうとする。まず活動を見せろということだ。いま・ここでなすべきことを私は明示し、まず隗より始めることにする。私は中学生のころから社会活動をしている関係で、茅ヶ崎の固定化した人間関係が見える。柔らかな活動は横浜・東京に出て行ってしまう。ここで、野人は何代も死に絶えている。しかし私は生きている。期待せず、まず自分が向き合うことを捨てないからだ。

私は茅ヶ崎に引きこもり青年の就労をめぐる相談カフェを立ち上げる活動をしたことがある。この実行委の参加者は意見の相違がある方たちがいて、講演会直前に対立の結果、双方とも参加しなかったため、痛みを広げないために中止にし、連絡の取れない講師に、当日坊主になって謝罪したことがある。その双方を責めるのではない。中間支援者の悲哀を、いやというほど味わってきた。そのことが影響していたのだが、私はある市議の方と出会い、ある活動を立ち上げることに協力を求めた。その方は企画当日都合が悪く参加しなかった。会は何とか終了したが、私の周囲は協力者が大半で、私と話し合って参加した「わーく」編集部のメンバーはひとりだった。引きこもり青年の登場というのは素晴らしいことなのだが、協力者頼みはダメという初歩的な壁にぶつかった。そのことが、その市議と連携するのは早いという判断に及んだのだが、その説明の回路は閉ざされてしまった。今回の会場でその方をお見かけしたが、視界から消えた。

今回の企画は、防災の講演会であったが、断絶の見える出会いの会でもあった。チラシは80枚近く配布してくださったし、明らかに目を通してくださっている方が、あちこちにいる光景は嬉しいものだった。いま・ここでやらなければならない沈黙できないことがある。そのメッセージだ。実現可能性を踏まえた大風呂敷だと思っている。

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朝、++さんからメールが届いた。ある専門職団体の会員にチラシを流してくださるという内容だった。感謝、嬉しいです。

衆議院選挙の前日、会合のあと食事で下車した藤沢の駅頭で、街頭演説の最後の追い込みをやっていた。チラシをくれたので、私もチラシをあげた。キョトンとしていたが、文面を見て数枚引き取ってくれた。「必要ですよね」それが、運動員君の応答だった。ちょっと嬉しかった。

相模大野校は、年末に清掃業者を入れる。私は障がい者関係の清掃業者を紹介した。提案より人数は減ったが実現した、これもちょっと嬉しかった。

母の嫌がる孤食、今夜はおでんを朝、仕込んでおいた。好物だから許すだろうとたかをくくっていた。帰宅後、鍋を開けて驚いた。ほとんど手付かずなのだ。プリンを食べたら胸につかえたから、もういいという。自分も食べるから、とにかくひとつ付き合えと母に迫り、大根とじゃがいもを食べさせた。目が離せない、「仕方がないな」とぶつぶついいつつ、煮締まったおでんを私もつついた。私は本来呑んべだが意志的に飲まないから、塩辛さが口に残った。

父の退院の準備が始まる。


夜間傾聴:ひとりあったらしい(固定電話・留守中だった)


(校正2回目済み)

コメント
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