2012/08/14 記
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慈恵医大病院は、田町から乗り継いで御成門に出るよりも、新橋に出て、そのまま歩くかコミュニティバスに乗ったほうがいい。バスは20~15分間隔で出ているが、祝祭日は2本/時なので、時間表を写しておいた方がいい。今回は25分も待っていられないので、徒歩で病院に向かった。20分位である。
しかし私のような同一薬品の長期利用者に、最長3ヶ月で再受診というのは、建前はわかるがしんどいものがある。処方箋と薬品代あわせて3千円程度なのだが、交通費が同じくらいかかるのだ。網膜色素変性症は治療法のない難病で、緑内障とも違う。このため、薬は眼圧降下と血流増進剤の目薬とビタミンAが処方されている。いわば体調改善剤で治療薬ではない。今のところ、これしか方法がないという。それならば、大学病院と地元医との分業に乗せ、検査のときだけ大学病院に通えばいいではないか。二重診療になるということ事態が、医療分業を阻んでいる。
新橋に戻り、そこから虎ノ門に出た。日本財団の警備は厳しい。ロビーをうろついているとすぐに守衛さんが尋問にやってきた。受付に仲介されたので話をするが、アポなしも災いして、**さん不在だけでなく、助成金申請書を書いて、お盆休み後に、アポを取って持ち込むように諭されてしまった。打診の話は門前払い。**さんと雑談交じりで、企画化の助成見通しを立てたかったのだが、面会申し入れは、うっかり用件を言うと、マニュアル対応で面会前に排除となる。やむ終えず、**さんにメールをだして、飯田橋の「舫(もやい)」に向かうことにした。
ちょっと面倒くさいが、虎ノ門から日本橋乗換えで飯田橋に出た。火曜日は、こもれび荘でサロン兼相談をやっている。稲葉氏と会った。私が会ったのが2年前、「湘南あすなろ会」としてである。すっかり忘れられていた。
私が訪問したのには2つ目的があった。ひとつは大船渡の大関輝一さんに協力する形で、陸前高田・広田半島の地域医療福祉ネットワーク作りついて、外出支援の形を端緒に、高齢者を中心にした寄り添い支援の支援と、孤立化防止の協力をおこなうために、「舫」が東北展開している見通しを教えて欲しいというもの。
もうひとつは、秋口に茅ヶ崎で行なう講演・交流会について、大関氏の講師依頼をお願いしたいということと、首都圏被災時、高校生が役割を得るために、「舫」の活動の中に接点は持ちうるかという、いわば東北現地訪問型ボラに対する非被災地が準備できることを相談したいというものだった。
こもれび荘には、相談者が4~5人訪れており、私としては、以前「湘南あすなろ会」のとき、「舫」の仲介依頼した方のネグレクトで、玄関が閉じていた経験があり、火・金の相談日のときに訪問しなければ空振りするという教訓があった。ところが、その火曜日に行ってみると、相談者が順待ちしており、集中して用件話を聞いてもらえない矛盾があった。HPから申し込むことができるが、企画相談というまだ煮詰まっていない話を申し込む分類項目がない。そういう応答なしの経験が2回ほどあり、それでアポなし訪問となったのだが、見事に空転した。
まず、大関輝一氏は、「舫」の東北展開で活動しているのではなく、個人として活動しているので、話はそちらにせよということ。これは誤算だった。ここですっかり稲葉氏の心は閉じてしまった。
既に東北の支援は現地滞在型の活動以外は意味がない状態に入っており、高校生の入る余地はないこと。(私は首都圏被災時の『舫』の活動の領域拡張した展開の生活支援で、『舫』のメンバーが避難所運営に散ったように、高校生が地元で成しうる支援が、『舫』の避難所メンバー補佐のような形で考えられる計画はないかと訊ねたつもりだった。)どうして「舫」と連携をとりたがっているのかという疑問に答えなくてはならなかった。
まず私は「SCFの『わーく』編集部」という引きこもり若年者の社会復帰と就労支援を路上生活者化した若者を含んで関わってきたこと。
ビッグイシューと出会い、路上生活当事者の自立活動として「湘南あすなろ会」を立ち上げ、湘南卸販売活動を初め、稲葉さんと出会ったのが、そのときだったこと。
「湘南あすなろ会」は内紛から凍結状態に陥り、再び「『わーく』編集部」として、社会的弱者の被災時の孤立化防止を核にしたセイフティ・ネットワークを作ろうと考えていること。
茅ヶ崎市内の高校のボランティア塾企画に、「防災と災害対策、セイフティネットの重要性を伝える授業を行ないたいと準備を進めて現在に至ること。
これが立ち話で通じるはずがなかった。東北被災地支援は現地滞在以外意味がないのではなく、そこを何とか非被災地の活動を作ることで、被災救援期の市民協力の埋れ火を地域活動につなげたいと考えていることの反論は、全くタイミングがはずれてしまい、言葉は断ち切られてしまった。
話が突然飛ぶが、ショッピングカードを最近作って不快な思いをした。申込契約書の必須書き込み項目に「独身・既婚」とあったからだ。私のような×いちはどうしたらいいのだろう。先方の発想から私は抜け落ちてしまう。こういう枠組みの谷間は、様々なところで経験する。今回は、日本財団でしかり、「舫」の多忙時の稲葉さんにしてしかりだったのだ。活動紹介のチラシ1枚手渡すことが出来ずに帰って来ることになった。
「舫」については、封書で相談することにし、大関氏の方も、改めてメールを書く予定でいる。
慈恵医大で懐具合が寒くなっていたが、気分替えになるので、母を茅ヶ崎駅に呼び出し、糖尿病の天敵「天ぷら」を食べた。贅沢なところではない、予算が足らないので「てんや」の外食となった。
母から「仏壇のない我が家、明日墓参に行ってくれ」と断れない依頼をうけた。我が家の墓は遠く、歩くところが多い、車を節約しようとすると母には無理だ。
しかし参った。今朝、2人、リストカッター(前のオーバードース)と橋本3君(就労相談中)が明け方電話をかけてくる約束になっていた。半徹夜が二日目となる。負のスパイラル、はまってたまるかと思うが、ともあれ自分の気持ちは18日の茅ヶ崎市杜の協働、意見交換会に気持ちが移っている。仏バチは勝手に当ててくださいな…と。
夜間傾聴:オーバードーズ君(仮名・臨時)
橋本3君(仮名)
(校正2回目済み)
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慈恵医大病院は、田町から乗り継いで御成門に出るよりも、新橋に出て、そのまま歩くかコミュニティバスに乗ったほうがいい。バスは20~15分間隔で出ているが、祝祭日は2本/時なので、時間表を写しておいた方がいい。今回は25分も待っていられないので、徒歩で病院に向かった。20分位である。
しかし私のような同一薬品の長期利用者に、最長3ヶ月で再受診というのは、建前はわかるがしんどいものがある。処方箋と薬品代あわせて3千円程度なのだが、交通費が同じくらいかかるのだ。網膜色素変性症は治療法のない難病で、緑内障とも違う。このため、薬は眼圧降下と血流増進剤の目薬とビタミンAが処方されている。いわば体調改善剤で治療薬ではない。今のところ、これしか方法がないという。それならば、大学病院と地元医との分業に乗せ、検査のときだけ大学病院に通えばいいではないか。二重診療になるということ事態が、医療分業を阻んでいる。
新橋に戻り、そこから虎ノ門に出た。日本財団の警備は厳しい。ロビーをうろついているとすぐに守衛さんが尋問にやってきた。受付に仲介されたので話をするが、アポなしも災いして、**さん不在だけでなく、助成金申請書を書いて、お盆休み後に、アポを取って持ち込むように諭されてしまった。打診の話は門前払い。**さんと雑談交じりで、企画化の助成見通しを立てたかったのだが、面会申し入れは、うっかり用件を言うと、マニュアル対応で面会前に排除となる。やむ終えず、**さんにメールをだして、飯田橋の「舫(もやい)」に向かうことにした。
ちょっと面倒くさいが、虎ノ門から日本橋乗換えで飯田橋に出た。火曜日は、こもれび荘でサロン兼相談をやっている。稲葉氏と会った。私が会ったのが2年前、「湘南あすなろ会」としてである。すっかり忘れられていた。
私が訪問したのには2つ目的があった。ひとつは大船渡の大関輝一さんに協力する形で、陸前高田・広田半島の地域医療福祉ネットワーク作りついて、外出支援の形を端緒に、高齢者を中心にした寄り添い支援の支援と、孤立化防止の協力をおこなうために、「舫」が東北展開している見通しを教えて欲しいというもの。
もうひとつは、秋口に茅ヶ崎で行なう講演・交流会について、大関氏の講師依頼をお願いしたいということと、首都圏被災時、高校生が役割を得るために、「舫」の活動の中に接点は持ちうるかという、いわば東北現地訪問型ボラに対する非被災地が準備できることを相談したいというものだった。
こもれび荘には、相談者が4~5人訪れており、私としては、以前「湘南あすなろ会」のとき、「舫」の仲介依頼した方のネグレクトで、玄関が閉じていた経験があり、火・金の相談日のときに訪問しなければ空振りするという教訓があった。ところが、その火曜日に行ってみると、相談者が順待ちしており、集中して用件話を聞いてもらえない矛盾があった。HPから申し込むことができるが、企画相談というまだ煮詰まっていない話を申し込む分類項目がない。そういう応答なしの経験が2回ほどあり、それでアポなし訪問となったのだが、見事に空転した。
まず、大関輝一氏は、「舫」の東北展開で活動しているのではなく、個人として活動しているので、話はそちらにせよということ。これは誤算だった。ここですっかり稲葉氏の心は閉じてしまった。
既に東北の支援は現地滞在型の活動以外は意味がない状態に入っており、高校生の入る余地はないこと。(私は首都圏被災時の『舫』の活動の領域拡張した展開の生活支援で、『舫』のメンバーが避難所運営に散ったように、高校生が地元で成しうる支援が、『舫』の避難所メンバー補佐のような形で考えられる計画はないかと訊ねたつもりだった。)どうして「舫」と連携をとりたがっているのかという疑問に答えなくてはならなかった。
まず私は「SCFの『わーく』編集部」という引きこもり若年者の社会復帰と就労支援を路上生活者化した若者を含んで関わってきたこと。
ビッグイシューと出会い、路上生活当事者の自立活動として「湘南あすなろ会」を立ち上げ、湘南卸販売活動を初め、稲葉さんと出会ったのが、そのときだったこと。
「湘南あすなろ会」は内紛から凍結状態に陥り、再び「『わーく』編集部」として、社会的弱者の被災時の孤立化防止を核にしたセイフティ・ネットワークを作ろうと考えていること。
茅ヶ崎市内の高校のボランティア塾企画に、「防災と災害対策、セイフティネットの重要性を伝える授業を行ないたいと準備を進めて現在に至ること。
これが立ち話で通じるはずがなかった。東北被災地支援は現地滞在以外意味がないのではなく、そこを何とか非被災地の活動を作ることで、被災救援期の市民協力の埋れ火を地域活動につなげたいと考えていることの反論は、全くタイミングがはずれてしまい、言葉は断ち切られてしまった。
話が突然飛ぶが、ショッピングカードを最近作って不快な思いをした。申込契約書の必須書き込み項目に「独身・既婚」とあったからだ。私のような×いちはどうしたらいいのだろう。先方の発想から私は抜け落ちてしまう。こういう枠組みの谷間は、様々なところで経験する。今回は、日本財団でしかり、「舫」の多忙時の稲葉さんにしてしかりだったのだ。活動紹介のチラシ1枚手渡すことが出来ずに帰って来ることになった。
「舫」については、封書で相談することにし、大関氏の方も、改めてメールを書く予定でいる。
慈恵医大で懐具合が寒くなっていたが、気分替えになるので、母を茅ヶ崎駅に呼び出し、糖尿病の天敵「天ぷら」を食べた。贅沢なところではない、予算が足らないので「てんや」の外食となった。
母から「仏壇のない我が家、明日墓参に行ってくれ」と断れない依頼をうけた。我が家の墓は遠く、歩くところが多い、車を節約しようとすると母には無理だ。
しかし参った。今朝、2人、リストカッター(前のオーバードース)と橋本3君(就労相談中)が明け方電話をかけてくる約束になっていた。半徹夜が二日目となる。負のスパイラル、はまってたまるかと思うが、ともあれ自分の気持ちは18日の茅ヶ崎市杜の協働、意見交換会に気持ちが移っている。仏バチは勝手に当ててくださいな…と。
夜間傾聴:オーバードーズ君(仮名・臨時)
橋本3君(仮名)
(校正2回目済み)
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