湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

言葉は無力、経験は先行できないのだろうか

2008-12-21 06:13:13 | 引きこもり
珍しく父が大声で寝ぼけている。まもなく午前4時。父が起き出しカーテンが空いてすぐに転倒した。「まだ5時間もある、疲れてしまうから休もう」とベッドに連れ戻すが、すぐに立ち上がり、階段を降りようとする。パジャマの上にパジャマを着込み、衣類・紙パンツ袋の周辺はかき回されて無茶苦茶。ともあれ興奮をなだめて一時休戦。

父を特養一時入所させる前の混乱が再開されていた。これも父の常備薬を主治医が「診察無しでは処方を出せない」と、突然いいだしたからだった。父を主治医の医院に連れて行く騒ぎが、出発前日に割り込んだのだった。

テンポが違う若手信者さんの階段介助協力と、付き添いのみという旧知の女性信者さんの応援を得て、車椅子のまま介護タクシーで移送した。

介護タクシーは屋内移動を手伝ってくれない。玄関の車椅子に当人が座ってから医院の玄関までがサービスの範囲だった。10時出発というのに若手は10時にやってきた。タクシーが数分前に着いているので、父の階段介助は、私ひとりとなった。

平地の移動すら父は私に捕まらず、必至に周囲のつかまりどころを探す。これは誰がやっても同じことが起きるのだった。ただセオリーの型に父の気を引かせてすんなり戻すところが、素人と玄人を分けていた。父はサル山の敵と私を見ていた。それがやっと介護の必要で指示に従うようになっていたが、第三者のいない階段単独介助は私に従うのを嫌がった。しかし、父の宗教団体の信者さんたちの単独誘導の場合には、父が身を任せる形で従おうとするが、ともかく彼らが不器用だった。たちどころに父の腰が泳ぎ、やはり彼らだけでも誘導はだめだった。

この介助の技の有名な事例では、「視覚障がいの方の手を引いてはいけない」というものがある。身を無理なく手の届く距離まで接近して寄り添い、自分の肩に手を添えてもらいガイドする。

丁度、この「手を引く」ことを信者さんたちは、知らずにやってしまうからだった。だから私が腰を支え、信者さんたちが声かけながら、三人で降りてやっと父は安定して昇降していた。実はこの「技」をめぐって、私の友人を怒らせてしまった。話の空転から、体験のギャップと言葉の無力さを感じたのだが、これは後で書く。

階段最上段で階段手すりを握るのを拒否して、壁に手をつき、崩れるように腰を落としてしまった。父はもがいて立とうとする。このまま手を引いて父を引き上げれば、古い骨折跡のある利き手は、肩や腕の関節に痛みを残すことになる。体突っ張る父の場合は、胴体の雪崩を起こし、腰を痛める危険があるので禁じ手としてきた方法ではあるが、座ったまま「赤子の『はいはい』」の形で降ろすことにした。以前は毛布に斜めに座らせて、毛布を引いた。危険度は増すが、父の協力少なくして、移動する苦肉の方法だった。不器用に階段を降りる際、今回は階段下に、介護タクシーの業者さん、付き添いならと参加した女性信者さんが。もがく二人の様子をじっと見ていた。

半身麻痺の側の足が段に引っかかり、深く折れ曲がっていうことを効かず、なんとか足の動きを私が補助して滑らせ、階段を降ろした。階段が危険であることを…


(割り込み)

父がカーテンを再び開けて、何か大声で私を呼んでいたので、書き込みをやめて2階に行ってきた。「*子(私の母)は、まだ帰ってこないのか」とどなっていた。母の手術も何も忘れていた。「今は朝の4時半、出発まであと4時間あるから、身体を休めていてくれ」とベッドに誘導。部屋が冷えているのに気が付いて、大部屋用のストーブの温度設定を上げてきた。日が出ると気温が急に上がるという天気予報、あとで設定を直せばいい。

部屋を離れたがポータブルトイレの蓋がすぐに開いた。まだ父は休んでいない。要警戒。

(割り込み解除)

階段が危険であることを父は知っているではないか。自分ひとりなら安全と考えているのだろうか。この辺がつかめない。

医院についてからは、持参の車椅子から医院の車椅子に乗り移る場面があったが、玄関は患者さんの靴が沢山散っていて、2台の車椅子を接近させておくことができない厄介な場面に出くわした。医院側が室内を汚さないためにとる措置なので、医院側の車椅子の汚れる外で乗り換えすることもできない。看護師はトランスファを実習していないのだろうか、協力要請するが、眺めているだけで看護婦は一切手伝わない。やむを得ず、付き添いの信者さんを前に立たせて、私は後方横から腰を支えて立たせ、2歩歩かせて「止め」、次に回転方向を肩をねじらせ指示。90度ずつ合計180度反転させ、転倒す体重のかかる腰を落下させず引き受けて、ゆっくり受け止めて医院の車椅子に移させた。足元はぎっしりと通院の患者さんの靴の山。危険極まりない移動だった。看護師は黙ってそれをみていた。

下半身麻痺の車椅子の方が、歩道放置物の進路妨害に立ち往生したとき、まず状況脱出を支援してくれる人がいないという「人ごみの中の孤独」を感じるという話をを思い出した。通行人にとっては、迂回させるには時間がかかり、放置物は他人の所有で、手を触れるわけにはいかないという手立ての迷いがあることはわかる。しかし、状況回避に誰かが誘導しなければ、この状況を脱することができないから、車椅子走行は、場の困難予測に気を使う。

しかし、ただの通行人と違って、今回の医院の看護師は故意の行動、関わりの基準を持ってのこと。実際、父が無事医院側の車椅子に腰を落としてからは、実に気が回った。境目の困難な場面協力は自分の抱えるリスクではないという判断であることだ。これは閉口した。頼むがダメ。帰りも同様に、今度は看護師の姿が消えた。

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今朝の移動は鎌倉の知人に無理に頼み込んだ。彼は「ふがいない奴」の「手助け」のつもりでやってくることに。気になったが、出入り口の大きい自家用車で特養まで運んでくれるだけでなく、母の見舞いを兼ねて車で大学病院まで、その後、行ってくれるというのでお願いした。

日送りした後の昨夜の巡回先は、変更不可能だった。橋本往復の4時間弱、例え家の階段下にバリケードを作っても、父をひとり放置するのは危険だった。そこを職場帰り家に立ち寄り、様子を見るということで協力してくれるということで、彼を連日だがお願いした。

彼が留守番中、幸い父は眠りこけていた。

「倉庫みたいな部屋だな」と私の部屋をのぞいたのだろう、「片付けろ」と彼にいわれて、受け流していた。「よーくみろ、雑誌が一冊もないだろう、問題は集会資料とチラシの始末なのだ」といいたいが。言い分けをその夜、メールするまでもなかった。私の帰宅直前、彼は鍵をかけて出て行ったのだった。

私の帰宅後、父の遅い夕食を済ませ、今日の段取りについて調整の電話を入れた。朝の階段のトラブルを説明した。笑われた。自分なら引き上げられる、立たせることができるというのだった。力技は当人とのコミュニケーションをとらずにやるのは危険なのだというが、通じない。古い知り合いなので、私の両親に面識があった。だから「自分なら信用してくれるから、そんなもの簡単だ」というのだった。

未経験ギャップの魔が潜んでいた。右足が沈む前に左足を出せば、ポニョではないが水面を歩くことが出来る。俺はお前と違って信用がある。だから、階段介助は大丈夫だという。腰が抜けて座り込んでも、父を「引き上げる」ことができるという。しかし、父がもし「肩が痛い」とホームで訴えて、職員が病院送りに判断したら、入所計画はそこで中断となり、入院が数日以上なら、もとの特養に戻れなくなる。長期ステイの父が行き場を失えば、その後は在宅看護になる。慎重にして欲しいのだ。それが伝わらない。

階段がうまく行かなかったのは、私の信用がなく、腕力が足らなかったからだと彼は思っている。介護の技を軽く見てはダメ。それは当事者の気持ちと交流を取る方法だからなので、実際、以前初対面の時、介護タクシーの業者さんは、軽く父を立ち上がらせることができた。彼は父の腕を引き上げているのではなく、背後に回っていた。

こういうと、知人は介護のコーチなんて大げさ、必要ない。お前は頭で考えすぎると叱られてしまった。

体験は言葉で伝えることは出来ない。対話することによって、共感可能な環境が背景にあってこそ成り立つ話なのだ。これから、やっと眠った父を2時間後に起こして食事をさせる。出発である。友人がまた怒るだろうが、助手席でいびきをかかせてもらうつもりなのだ。

夜間傾聴:なし
     大森海岸君(仮名・忘年会話<これ辞退なり、すまん)

(校正2回目済み)
コメント
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