父の衣類の管理は母がやっていた。私は洗濯屋兼着せ替え屋だった。だからさて、父の衣類の山を見るが、組み合わせがわからない。宿泊に何組着替えを持たせればいいのかわからない。父はこの段になって母の不在に気が付いた。
入院のことをいうと、また押入れのボストンバッグを取り出そうとした。はじめ父は旅行と勘違いしていると思っていたが、自分も入院するのだといいだすので、父にとっての入院は治療ではないのだと知った。
冗談ではない、だから「濡れ落ち葉」と揶揄されるのだ。入院しているのに、母に世話させるのかと問うが、全く通じない。
ということは、前日、母が玄関待機中の父よりも先に出かけていったことは、行き先が全く分かっていなかったことになる。さんざん、説明し、母が静かにしていてくれと頼んでも、全く意味が通じていなかったのだとわかった。
それどころではない。母が手術だと聞くと、どこが悪いのかと聞く。胃がんと答えると、ポリープは1週間位だと、父の実家の兄の手術例を出した。これは何十年も前の出来事で、喉頭のポリープ切除で、このときアデノイドもやったので、入院していたのだった。胃ガンの知識がなかった。身の回りの例ですべてを言い換えてしまうことは、抽象化という知の体験が浅い方の自己了解の方法なのだった。学校知が教えることは、体験を離れた知のネットワークへの接続の方法と言っていい。父がTV漬けの状態になって久しい。しかしそこから知識を得ることが出来ていないのは、単に難聴や認知症だからというのではなく、知識は関心でキャッチしなければならないからだった。知識は「つかむもの」なのだ。
この状態に父を放置したのが、父があこがれた家父長制にある。置物のようにじっとすわっていれば、周りが世話をする。私が散々泣かされたのが、この権力志向だった。鈍い痛みがよみがえってくる。子どもの頃の、飲み込まれなかった誇りが今の自分を支えている。
父の眠ったのを見届けてから、階段下にバリケードを作って、駅前まで出た。振込みと投函を済ませ、そのまま帰ってみると、宅配便業者が玄関のチャイムを押していた。肝が冷えた。玄関の鍵を開け、宅配便業者を待たせて階段を駆け上がった。恐れていたとおり、父は電源コードに足を絡ませて、サイドテーブルを投げ飛ばして転倒していた。来客・電話は無視しろと教えてきたことは、今回も守られなかった。
父の安全を確認し、宅配屋から荷物を受けとった。宅配屋は異常を察知して、米つきバッタのように会釈を繰り返して立ち去っていった。
父の足が捻挫していると、明日の階段介助は毛布担架で下ろさねばならない。足の電源コードをはずして、からっぽにしておいたサイドテーブルを元に戻していると、あろうことか、父は階段を降りかかっていた。後ろから羽交い絞めにして、私がクッションになるように、後ろ向きに倒れて、父の行動を阻止した。
足は大丈夫、しかし、目が離せない。
玄関が開けっ放しだと父は言い張る。大丈夫だと私が抑える。急いでポータブルトイレに座らせる。父は一階のトイレには、排便目的で行きたがる。怪しいと踏んだからだった。座らせた途端、どんと音をたてて、はめこんであったトイレのバケツが下に落ちた。さきほどの転倒で、位置がずれていたのだ。部屋中に排泄物が流れ出すところだったが、幸い真下に落ちてバケツは無事だった。
父の座る椅子の下からバケツを持ち上げると、父の便が爆発したように落ちてきた。バケツが倒れていたらすさまじいことになっていた。
この神経戦を母の留守中、継続することを思うと身がすくんだ。身辺介助のヘルパーさんに援助してもらったとしても、私がつぶされてしまう。父を落着かせて、陰部を清拭。食事までの時間、休ませると、私の腰が抜けた。宅配便・訪問者が爆弾着火してしまうのだ。
シャワーを浴びたが、妙に手が臭い。理由がわかった。母は父の排泄処理にシャワーを使う。汚れた手でバルブを開いたままにしていたのだった。あらゆるところに汚染が広がっていく。古典的な逆性石鹸液を作り、風呂場のコックと階段の手すり・玄関のノブを拭いた。先ほど父が上から降ってきたときの肘の打撲が痛んだ。
食事を作って寝床に持っていくと、父は気持ちよさそうに寝息をたてていた。耳元ではチューニングのずれたAMラジオがホワイトノイズの騒音を流し、受診感度の悪いTVが、ざらついた画面から番組のトークがせわしい声を張り上げていた。聞こえないのだ。片耳がまるで聞こえない。反対側を枕にうずめていると、全く何を言っても反応しない。半身麻痺の血栓梗塞は聴覚に及んでいた。
ラジオを消し、TV音量を下げた。父を食事に誘い、起こしてエプロンをかけた。終わったら電話を鳴らせと指示して、部屋を離れた。
戦場である。この状態で、これから一ヶ月、自分の食事は孤食かと覚悟をする。家にこもったらつぶされる。介護に他者の目をいれるために、無駄とおもわずヘルパーさんを入れる。
臭いブログだから、臭い話は許してもらう。私は父の勝手を書きながらも、介護を試練とも災難とも思っていない。気持ちの上では確かに後者に近いものを感じるが、多くの方が底無し沼のような親の介護に取り込まれているのだ。家族制度が核家族化しているから、なおさらのことだ。私は今、家族の危機管理をしている。だが父は家族として生きているだけではなく。社会の一員としても生きている。お粗末な社会保障の分の支えを抱え込まされているのだと思う。考えてみるといい。家族を持たないものが生きる価値が無いのかなど、そんなことはない。社会の位置は存在するのだ。ここは家族と親子の徳目で介護が覆い隠されてはならないところだ。肥大した家族の役割(例えば後継ぎ)思想に、現実を取り込まれることはしない。ひとは生きることの痛みを忘れたら朽ちる。その原点にたてば、おのずとひとはつながっていく。父の介護も破綻する老いた心身・彼の生涯を支えている。青臭いことではない、糞臭い話なのだ。
今日、父はショートステイに出かけ、私は実家の兄夫婦を守りながら、ともに手術説明を聞きに行く。無理して実家の夫婦が出てこなくてもいいのにと思う。終了後、送りはタクシーに任せて父の実家に帰し、夜、******君の親御さんと会う。そして明日が8時から手術だ。
夜間傾聴:中延君(仮名)
##君(仮名・中断、心配)
(校正2回目済み)
入院のことをいうと、また押入れのボストンバッグを取り出そうとした。はじめ父は旅行と勘違いしていると思っていたが、自分も入院するのだといいだすので、父にとっての入院は治療ではないのだと知った。
冗談ではない、だから「濡れ落ち葉」と揶揄されるのだ。入院しているのに、母に世話させるのかと問うが、全く通じない。
ということは、前日、母が玄関待機中の父よりも先に出かけていったことは、行き先が全く分かっていなかったことになる。さんざん、説明し、母が静かにしていてくれと頼んでも、全く意味が通じていなかったのだとわかった。
それどころではない。母が手術だと聞くと、どこが悪いのかと聞く。胃がんと答えると、ポリープは1週間位だと、父の実家の兄の手術例を出した。これは何十年も前の出来事で、喉頭のポリープ切除で、このときアデノイドもやったので、入院していたのだった。胃ガンの知識がなかった。身の回りの例ですべてを言い換えてしまうことは、抽象化という知の体験が浅い方の自己了解の方法なのだった。学校知が教えることは、体験を離れた知のネットワークへの接続の方法と言っていい。父がTV漬けの状態になって久しい。しかしそこから知識を得ることが出来ていないのは、単に難聴や認知症だからというのではなく、知識は関心でキャッチしなければならないからだった。知識は「つかむもの」なのだ。
この状態に父を放置したのが、父があこがれた家父長制にある。置物のようにじっとすわっていれば、周りが世話をする。私が散々泣かされたのが、この権力志向だった。鈍い痛みがよみがえってくる。子どもの頃の、飲み込まれなかった誇りが今の自分を支えている。
父の眠ったのを見届けてから、階段下にバリケードを作って、駅前まで出た。振込みと投函を済ませ、そのまま帰ってみると、宅配便業者が玄関のチャイムを押していた。肝が冷えた。玄関の鍵を開け、宅配便業者を待たせて階段を駆け上がった。恐れていたとおり、父は電源コードに足を絡ませて、サイドテーブルを投げ飛ばして転倒していた。来客・電話は無視しろと教えてきたことは、今回も守られなかった。
父の安全を確認し、宅配屋から荷物を受けとった。宅配屋は異常を察知して、米つきバッタのように会釈を繰り返して立ち去っていった。
父の足が捻挫していると、明日の階段介助は毛布担架で下ろさねばならない。足の電源コードをはずして、からっぽにしておいたサイドテーブルを元に戻していると、あろうことか、父は階段を降りかかっていた。後ろから羽交い絞めにして、私がクッションになるように、後ろ向きに倒れて、父の行動を阻止した。
足は大丈夫、しかし、目が離せない。
玄関が開けっ放しだと父は言い張る。大丈夫だと私が抑える。急いでポータブルトイレに座らせる。父は一階のトイレには、排便目的で行きたがる。怪しいと踏んだからだった。座らせた途端、どんと音をたてて、はめこんであったトイレのバケツが下に落ちた。さきほどの転倒で、位置がずれていたのだ。部屋中に排泄物が流れ出すところだったが、幸い真下に落ちてバケツは無事だった。
父の座る椅子の下からバケツを持ち上げると、父の便が爆発したように落ちてきた。バケツが倒れていたらすさまじいことになっていた。
この神経戦を母の留守中、継続することを思うと身がすくんだ。身辺介助のヘルパーさんに援助してもらったとしても、私がつぶされてしまう。父を落着かせて、陰部を清拭。食事までの時間、休ませると、私の腰が抜けた。宅配便・訪問者が爆弾着火してしまうのだ。
シャワーを浴びたが、妙に手が臭い。理由がわかった。母は父の排泄処理にシャワーを使う。汚れた手でバルブを開いたままにしていたのだった。あらゆるところに汚染が広がっていく。古典的な逆性石鹸液を作り、風呂場のコックと階段の手すり・玄関のノブを拭いた。先ほど父が上から降ってきたときの肘の打撲が痛んだ。
食事を作って寝床に持っていくと、父は気持ちよさそうに寝息をたてていた。耳元ではチューニングのずれたAMラジオがホワイトノイズの騒音を流し、受診感度の悪いTVが、ざらついた画面から番組のトークがせわしい声を張り上げていた。聞こえないのだ。片耳がまるで聞こえない。反対側を枕にうずめていると、全く何を言っても反応しない。半身麻痺の血栓梗塞は聴覚に及んでいた。
ラジオを消し、TV音量を下げた。父を食事に誘い、起こしてエプロンをかけた。終わったら電話を鳴らせと指示して、部屋を離れた。
戦場である。この状態で、これから一ヶ月、自分の食事は孤食かと覚悟をする。家にこもったらつぶされる。介護に他者の目をいれるために、無駄とおもわずヘルパーさんを入れる。
臭いブログだから、臭い話は許してもらう。私は父の勝手を書きながらも、介護を試練とも災難とも思っていない。気持ちの上では確かに後者に近いものを感じるが、多くの方が底無し沼のような親の介護に取り込まれているのだ。家族制度が核家族化しているから、なおさらのことだ。私は今、家族の危機管理をしている。だが父は家族として生きているだけではなく。社会の一員としても生きている。お粗末な社会保障の分の支えを抱え込まされているのだと思う。考えてみるといい。家族を持たないものが生きる価値が無いのかなど、そんなことはない。社会の位置は存在するのだ。ここは家族と親子の徳目で介護が覆い隠されてはならないところだ。肥大した家族の役割(例えば後継ぎ)思想に、現実を取り込まれることはしない。ひとは生きることの痛みを忘れたら朽ちる。その原点にたてば、おのずとひとはつながっていく。父の介護も破綻する老いた心身・彼の生涯を支えている。青臭いことではない、糞臭い話なのだ。
今日、父はショートステイに出かけ、私は実家の兄夫婦を守りながら、ともに手術説明を聞きに行く。無理して実家の夫婦が出てこなくてもいいのにと思う。終了後、送りはタクシーに任せて父の実家に帰し、夜、******君の親御さんと会う。そして明日が8時から手術だ。
夜間傾聴:中延君(仮名)
##君(仮名・中断、心配)
(校正2回目済み)