日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

祖父の天気予報

2016年08月21日 | 回想


 今年の台風発生は例年より遅れていた。ここにきてたて続けに発生、しかも東北・北海道を目指す進路をとっている。7号は過ぎ去ったが11号に続いて9号が似たようなコースを進むという。今年から台風進路の予報円が小さくなり進路の予測の確率が高くなったのは科学の進歩だ。しかし、この台風や雷のエネルギーを蓄える技術はまだ生まれていない。なんとかならないだろうか。

 進歩する天気予報の技術だがこれが極秘情報として閉ざされた時期があった。新聞に天気図が載ったのは92年前の今日、8月21日という。首都の新聞の一部で始まりやがて全国に広まった。ところが真珠湾攻撃と同時に天気図が紙面から消えた。軍が気象情報管制を敷いたからだ。理由は簡単、晴天を敵に知られ空襲されることを恐れたからで、情報はすべて暗号化され東京に集められた。当然のようにラジオ放送も中止になった。

 天気予報の暗号化が解除されたのは昭和20年8月22日、71年前の明日ということになる。開戦翌年の8月、周防灘台風が山口県を襲い死者・不明800名近くに及んだという。もし、台風情報が知らされていたらという思いがする。朝刊「今日の天気コーナー」、情報統制した軍部の人らが見たら驚いて腰を抜かすほど詳細に載っている。これを見てその日の予定を組むこともある。

 終戦直後に小学校に入学した。家を出るとき空を見上げた祖父が「今日は傘を持って行け」と促す。当たった確率は割と高かったように記憶するが、天気情報が管制だったことから自学習した経験から身に付けたのだろう。50数年前に黄泉の国へ旅立ったが、我流予報は役立っているだろうか。
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困ったラッシュも

2016年08月20日 | 生活・ニュース


 出かける時間を少し遅らせてリオ五輪陸上400メートルリレーのLIVEを見た。画面を見るだけでは日本選手の動向はつぶさに分からない。そこは実況、アナウンサーの次第に高揚する放送に引き込まれる。途中から高順位を予想しTVにカメラを向けゴールと思しきときにシャターを押した。

 音声の繰り返す銀メダル獲得を聞きながら液晶で撮れ具合を確認する。2位でゴール直前のケンブリッジ飛鳥が映っている。ボルトーが右端に写っておりシャッターチャンスはよかった。記録は37秒60で日本新記録、ゴール後に場内の歓声にこたえる山縣・飯塚・桐生・ケンブリッジの全身に喜びを感じる。そうだろう、五輪陸上トラック競技で男子銀メダルは史上初という。女子は88年前人見絹枝が800メートルで獲得している。

 バドミントン女子の単複、男女レスリング、50キロ競歩などメダル獲得が続く。一方でメダルを手にした帰国選手も紹介される。本県からもメダリストが誕生、ローカルニュースも喜び一杯に伝える。ある高校野球フアンが「五輪の年は甲子園中止」と言うくらいメダルラッシュが続く。

 一方では台風ラッシュで大きな被害が発生している。追い打ちをかけるように複数の台風がさらに北上し東北・北海道に向かう予報。台風が通過するまではTVで甲子園、五輪観戦にはならない。大きな被害発生の無いことを遠くから祈るしかない。こちらでも一雨欲しいが、収穫直前の稲田に雨は困るという。物事の按排は難しいものだ。
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定例会出席10年

2016年08月19日 | エッセイサロン


 毎月第3金曜日、中央公民館で13時から岩国エッセイサロンの月例会。今日はその126回目になる。会は、前月の会員の新聞掲載実績と累計、前年度との比較などが報告される。数値はメンバーの努力のバロメーターになる。続いて前月度毎日新聞掲載の「はがき随筆」入選作を中心に勉強する。作品・選者への感想も含めて時には厳しい意見や指摘がある。これは以後の創作への参考になる。

 続いて会員創作のエッセイ合評、持ち寄った作品を配布し自らが読む。一呼吸すると先の勉強会と同じく良いとこ悪いとこ、表現が誤解され易い、漢字か仮名かなど批判批評でなく「自分ならこう書く、表現する」など、書く本人には気づかぬところを指摘される。毎月、我が不勉強に気づく。

 例会の資料、掲載実績とはがき随筆入選作の切る抜き、その整理とコピーなどは会の代表ご夫妻の手を煩わしている。資料はキングファイル4冊目という膨大な量、史料になるかもしれないと大切にしている。

 今日、126回目の例会は私の例会出席満10年に当たる。第7回例会からの参加で120回と言いたいが1度病欠がある。例会の合評用エッセイは欠かさず提出し続けている。作品の良し悪しを抜きにしてこれだけは自慢できる。3年前には投稿掲載100編の自費出版をさせてもらった。10年一昔、過ぎてみれば早かったと感じる。思いを新たにしてこれからも書いてみよう。
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こちらもラッシュ

2016年08月18日 | 生活・ニュース


 リオデジャネイロで開催中のオリンピック、不安な情報も報道されているが競技への影響は無いようでひと安心してTV観戦している。時差12時間、中継を見すぎ業務に支障ないよう、安全にぬかりのないようにと、こちらを心配している。

 どのメディアも「メダルラッシュ」と報じる。ロンドン大会とは異なり、メダル獲得の無い日は無いくらい、世界の舞台で戦っている選手の努力には頭が下がる。そしてメダルを獲得しても謙虚な態度に好感を抱く。今日は朝から女子レスリング3階級で金メダル、勝負への信念と執念が読み取れた。

 メダルラッシュに合わせて号外ラッシュが続く。購読している地元紙は、申し込んでおけば号外発行の都度メール添付で送られてくる。新聞紙面とは数段違う綺麗で鮮明な写真は臨場感たっぷり、詳細記事は翌日の朝刊になるが号外は保存できるのがいい。

 号外は「定期以外に発行する新聞・雑誌」で、「特に大事件などの際に臨時に発行する新聞」と広辞苑。号外が発行されるということは大きなニュースが起きたということで、五輪という巨大な組織を教えられる。こうした号外はいくら発行されてもいい、続くパラリンピックの号外も期待する。
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3日連続

2016年08月17日 | エッセイサロン


 岩国エッセイサロンに入会出来たのは発足して半年過ぎていたが来月で満10年になる。サロンは「エッセイの創作や、エッセイにかかる勉強をすることを通して自己啓発を図ると共に、創作したエッセイを外部に発信し評価を仰ぎ、ひとりひとりが輝いて生きること」を目指す同好の士の集まり。毎月1回定例会を開いている。例会では創作の難しさを今もって教わっている。

 外部発信方法として新聞投稿とブログを教わった。初参加の例会後に初めて短いエッセイを書き、祈る思いで投函した。初投稿のご褒美かもしれないが、数日後に掲載された。紙面の一部に自分の名前の入った囲みはを見たときの感動は忘れていない。投稿は続けているが、掲載率は伏せておこう。ブログは書くことへの抵抗感を薄めてくれた。ほぼ、反省を込めて何か書いている。

 エッセイで自慢話を読まされるのはあまり面白いものではない。だから自分のブログにも同じことは言える。言えるが今回は記録として残すために書いておく。投稿掲載が2日続く、あるいは同じ日に2編載ったという経験はしている。今回はお盆を挟んで3日連続の掲載になった。偶然のことだがやはり喜べる。

 投稿から2日目、1カ月目、9日目の掲載順となった。1カ月目については盆の15日に掲載すると連絡を受けていたが、ほかの2編は載ってから知った。3日連続は偶然だから理由はないが、投稿していたから載ったことに違いはない。喜んだあとの反動がこないようこれからも創作を続けていこう。
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「屋」の技で

2016年08月16日 | エッセイサロン
2016年08月16日 毎日新聞「はがき随筆」掲載

「今の時代『や』ではやっていけん」という店主。「や」を聞き返すと「屋」だという。

 本屋、肉屋、呉服屋、薬屋、時計屋、傘屋、まだいくつもあるが、昔からの店は商売内容の次に屋をつけて呼んでいた。そんな商店街をひっくるめた大型店舗が郊外にいくつも進出する。それに連れて客は減り閉店は相次ぎ寂れていく。

 動かなくなった時計を持ち込む。しばらく眺めて「修理、やってみましょう」と店主は笑顔。「屋」ならでこその積み重ね磨き上げた技術が戸閉(とだて)の奥に潜んでいる。これをシャッター開けの鍵にして盛り返せ。
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命日の墓掃除

2016年08月15日 | エッセイサロン
2016年08月15日 中国新聞「洗心 明窓」に掲載 

 私は両親と祖父母の命日前に墓掃除を欠かさない。墓参りも年に十数回は行く。ことしは祖母の命日の前に都合がつかず、当日の朝早く
出掛けた。「おばあさん来たで」。墓に向かって語りかけて掃除を始めた。蒸し暑い日で、すぐに額から大粒の汗が流れ出て目に入る。拭っていると、あの日に大汗をかいたことを思い出した。

 それは60年以上前のこと。小学6年だった時、病気で伏せていた祖母の容体が急変した。私は、仕事から帰っていた父の言い付けで、出先にいた母に連絡するため出掛けた。ようやく乗れるようになった父の自転車をこいで急いだ。

 私から祖母の様子を聞いた母は出先の車で家まで送ってもらったが、私は来た道を再び自転車で帰った。家に着くと、「雨に降られたか」と言われるほど、汗で全身はびっしょり。往復とも夢中で自転車をこいたためだ。その晩、私は初めて、人の臨終に直面した。

 祖母のことしの命日に掃除を終えた時、黄色いチョウが墓の上を飛んだ。祖母が「ありがとう、安心した」と伝えによこしたのだろう。家を継いで半世紀。父の享年を20年超えた。先祖の墓守は、私ら夫婦の当たり前の日常になった。
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カヌー銅 感動の光景

2016年08月14日 | エッセイサロン
2016年08月14日 中国新聞「広場」掲載

 リオデジャネイロ五輪で日本選手のメダルラッシュが起きている。中でも興味が湧いたのは、日本の五輪カヌー史上初めて表彰台に上がった羽根田卓也選手だ。
 羽根田選手は北京五輪では予選敗退、ロンドンでは7位、そして今回、男子カナディアンシングルで銅メダルを手にした。3位決定の瞬間か印象深い。
 羽根田選手は、カヌーの上で感無量の涙を、はばかることなく拭い始める。他の競技のように、祝福に駆け寄る人はいない。
 すると幾艘ものカヌーが静かに近づき、羽根田選手を笑顔で祝福した。
 これまで、五輪で多くの場面を見てきたが、今回の外国人選手たちの祝福の場面には胸が詰まり、これぞ 五輪と感じた。
 カヌーの本場スロバキアに単身で渡って苦節10年、世界中の多くの選手と交流を重ね競い合ってきた。
 そこで培ったパドルさばきが初のメダルをもたらした。今後の日本カヌー界の流れをつくってほしい。
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ライオンの墓 2

2016年08月13日 | しっちょる岩国


 団長は動物たちを助けるために檻の戸を開けるように命じていましたがどれだけ開いたかはっきりしません。檻はだんだん下流に姿を消しました。急を聞いて駆け付けた消防団の人も水の勢いにどうすることもできませんでした。13日、朝から天気は回復、演劇団と消防団の人は力を合わせ動物探しを始めました。

 臥龍橋にサルの檻が掛かっていてロープで檻に近づき助けた。大蛇は妙見様の下の山で発見、演劇団員が連れ帰った。そのほかの動物達は濁流にのまれてしまいました。大島に流れついた檻もあった。そんな中ライオンの屍が見つかった。人々はライオンを川西の阿弥陀閣へ運び、8月18日に土葬、川西の人々がお金を出し合い畜魂碑(ちくこんひ)を建てライオン以外の動物の霊も慰めました。話はここまでです。

 阿弥陀閣は1979(昭和54)年4月29日焼失し廃堂となった。阿弥陀閣は、ルース台風(1951年)で臥龍橋が流失し登校できなくなったとき、本堂で地区の児童が学習したがライオンの墓の話は知らなかった。先日、跡地を訪ねたが整地(写真)されそこに、かっての川西地区住民善意作られた畜魂碑は見当たらなかった。

 阿弥陀閣の開基は7代藩主吉川経倫(うねとも)が1802(享和2)年に創建したとされる。本尊は聖徳太子が作られた「阿弥陀如来像」だが焼失し廃堂後は市内の某寺に収められていると記録されている。阿弥陀如来も阿弥陀閣も数奇な運をたどったようだが、私には検証の能のないことを残念に思う。動物たちの霊を慰めるため畜魂碑を建てた地域皆さんの優しさを知ってもらいたい、そう思いながら写させてもらった。
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ライオンの墓 1

2016年08月12日 | しっちょる岩国


 子どものころこんな話を聞いていた。ある年の夏、錦帯橋の川原でサーカスが開かれていた。台風が来てサーカス小屋は流された。そこにはライオンなど珍しい動物もいたがみんな流されて死んだ。大蛇は下流の臥龍橋を上って助かったがどこへ行ったか分からない。大きな抜け殻がどこかにあるかもしれん。大蛇については半信半疑のまま70年近く過ぎた最近、この話を「ライオンの墓」(写真)として綴った文章に出会った。概略を写させてもらう。

 昭和5年の夏休みも暑い日が続いていた。夕方になると長い腰掛けを家の前に持ち出し、世間話をしながら夕涼みをして過ごしていた。8月になり錦帯橋川原に山元動物演劇団がやってきた。娯楽の少ない時代、絵や写真では見ていても、本物のトラやライオンを見たことのない人が沢山いました。11日から始まった初日には遠くから歩いて見に来る人などで満員となりました。

 12日、昼の部を終えたころに南の湿った風が吹きはじめ天気がおかしくなってきました。雨が降り始めたが予定通り開演しました。間もなく、水をうつすような大雨が小屋の屋根を叩き始めた。風も強さを増し、テントの隙間からも水しぶきが舞台に落ち始めました。演劇団はプログラムの主なものを上演し早めに終了しました。見物の人たちは濡れ鼠のようになって帰って行きました。雨は衰える様子もなく降り続きます。

 青く澄んでいた錦帯橋下の水も、だんだんと濁り増水し始めました。これまで見たこともない速さで水は小屋に迫ってきます。団員は、沢山の動物たちを檻ごと移動させる作業を大雨の中みんな必死に続けす。しかし、小屋は倒れ下流へ流され始めた。一緒に動物たちの檻も流れ、檻の中から動物たちの「ウオーン、ウオーン」と助けを求める声が聞こえます。(ライオンの墓 2へ) 
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