作 東井義雄
北村君は、貧しい母子家庭の子どもで、小学3年のときから、8年間、毎朝3時半に起床、町中を新聞配達し、終わると勉強、朝食を済ませて登校、学校が終わると、とんで帰って、町中、夕刊配達をしている子でした。
お母さんが厳しい方で「お前の本職は勉強だ。学校でいねむりなんかするようなら、新聞配達をやめてしまえ」と、いっておられるとも聞いていました。夏の日など、他の子どもの中には居眠りする子があっても、彼は、どんな暑苦しい日でも、背筋をピンと伸ばして、睨みつけるような目で、授業を受けるのでした。
「北村君、何か」と私が指名すると、「先生、あああと口をあけると、喉の奥に、上から下がっている、ぼくらが『ノドチンコ』と呼んでいるものが見えてきます。あれは、どういうはたらきをしているのですか」と申します。
私は、困ってしまいました。「ノドチンコ」と呼んでいるものが存在していることは知っていましたが、そのはたらきは全く知りませんでした。そのはたらきに疑問をもったこともありませんでしたし、教わった記憶もありません。
「北村君、申しわけないが、私にもわからん。今夜、調べてみるから、すまないが、明日まで答えを待ってみてくれないか」としか、いいようがありませんでした。その日、学校図書館の中から、人体に関する書物を風呂敷いっぱい借りて、私は、下宿に帰りました。
口から入った食べものは、食堂を通って胃に送られるわけですが、喉の奥で、食べものが通る「食道」と、鼻から吸い込んだ空気が「肺」に進む「気管」とに、道が岐れています。その岐れ道で、もし食べものが「気管」の方に進むと窒息してしまいます。
そういうことにならないようにするために、食べものをのみ込むときには、あの「ノドチンコ(ほんとうの名前は『口蓋垂』)」が、気管の入口を、ピタリと蓋してしまうのだそうです。そのおかげで、まちがいなく「食道」に進み、「胃」に進むのだそうです。
そして、気づいてみたら、「ノドチンコ」だけではない。「目」があって、それがどんな仕組みになっているのか、何でも見せてくださるのです。「耳」があって、どういう仕組みになっているのか、何でも、聞かせてくださっているのです。
鼻に穴があいていて、呼吸がはたらきづめにはたらいていてくださっているのです。この呼吸がとまったら、忽ちのうちに死んでしまわなければならない呼吸です。いのちにかかわる呼吸です。
そのいにちにかかわる呼吸を、主人公である私は、忘れっ放しなのです。その忘れっ放しの私のために、夜も昼も、土曜も日曜も、盆も正月も、一瞬の休暇もとらず、はたらきづめにはたらいてくれているのです。
「口」があり、「口」には「歯」があり、「舌」があり、食べものを噛みこなすはたらきをしていてくれるのです。食べ物が「胃」に入り「腸」に進み、血にし、肉にし、骨にし、はたらきのエネルギーに変わっていくのです。胸の中では、「心臓」が、これも年中無休ではたらいてくれているのです。
「生きている」つもりでいたら、何もかも「生かさせてもらっていた」のです。仏さまは、私の中で、私といっしょに、私のために、忘れっ放し、逆きっ放しの私のに、生きてはたらいてくださっていたのです。
「北村君ありがとう」「北村君ありがとう」私は、そうつぶやかずにはおれませんでした。私は、こうして、北村君のおかげで、「生かされていた私」「願われていた私」「祈られていた私」「赦してもらって生きていた私」に、目覚めさせて頂いたのです。