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その日は、5月に似つかわしくない篠の突くような雨が朝から降っていた。昼ころ、祖父が往生をとげたという知らせが職場に届く。祖父は楽しみにしていた関西旅行から帰って10日目くらいに庭で転んだ。それが引き金のように床に臥しまもなくの往生で、祖母のそれから8年が過ぎていた。
その祖父の50回忌の年に当たる。案内すべき人たちはすでにお浄土へ、家内と2人が仏前に座り、御師匠寺のご院家さんにお勤めいただいた。心身にしみこむような読経に、蝋燭の火がいつもより高く登るように輝く。祖父が喜んでいるようです、ご院家さんと話す。
門徒必携に法事の意味が載っている。なくなった人をしのぶことを、「とぶらう」いう。とぶらうとは「訪う」という意味で、訪ねていくことだ。現存の人なら世界の果てまででも訪えるが、なくなった人を訪ねるにはどうしたらよいのだろう。
ひとつには、ありし日の故人の面影をしのび、感謝するという世俗的な意義。この場合、故人のこころを安んじる方法は、後に残ったものが仲よく幸せに暮らすことだ。なぜなら、それが人間だれしもの、後に託するのが願いですから。
ふたつには、故人の命日を縁として、自分自身が仏法に触れ、教えを聞くという宗教上の意義。この場合、故人のこころを案じる道は、自身が信を得て、信仰の喜びに生きること、それがみ仏になられた故人の願いだから、という。
今は、毎夕べに仏飯をそなへ感謝の合掌、法話を年に何度か聞く、毎月の墓参りくらいの信心だ。ただ、真摯に生活することは信条としている。来年は母の25回忌、その数年後に父の50回忌が待っている。来年は子や孫、弟妹も集う法要になる。
(写真:門徒必携や勤行集)
これひとえにtatu_no_koさんのお人柄のたまものでしょう。
しかしそういう機会もなくなり父母の逝去時には心のよりどころがなくただただ悲しんでばかりでした・・
tatu_no_koさんの法話の記事のおかげさまで父母をしのぶ心の整理ができそうです。
貴家のご院家さまのお教えはすばらしいですね。
わが住職さんからは残念ながら教えが伝わってこなかったものですから悶々としておりました。感謝です。
故人の心を安じる、いい言葉だと思いました。