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静御前「静」

2009年04月14日 | 生活・ニュース
               

ある道の駅、駐車場の奥まったところに、遠くへ思いをはせるような立ち姿の像が見えた。よってみると和風庭園の中の大きな石の上には右手に扇をかざした舞姿の像だった。静御前「静」とある。

美貌と才芸、優雅と勇気といった諸美徳を兼ね備えた、日本の理想的女性「静御前」の話は、歴史教科書「吾妻鏡」・「平家物語」や「義経記」などにある、の書き出しで大きな説明版が立っている。それによると、

静は源義経・源頼朝の対立後、義経が京都で頼朝の刺客に襲われた時は、いち早く襲撃を察知し、沈着・機敏に義経を助けた。また義経が吉野に潜行したときも、女でただ1人これに従い最も義経を信じ愛した女性と書かれている。

文治2(1186)年頼朝方に捕まり、頼朝・政子夫婦や鎌倉諸将の居並ぶ鶴岡八幡宮で舞を命ぜらた時に「吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の あとぞ恋しき」と義経への愛を切々と歌い、頼朝を怒らせたが政子のとりなしで事なきを得た。

説明版はさらに続く。まもなく生んだ義経の息男は、頼朝方によって殺され、失意の中、母と共に京都に帰り、その後、義経を恋い慕い、侍女を従え、平泉に、義経の後を追おうとしたが、義経の死を聞き、精魂尽き、生きる希望さえなくし、剃髪し尼となった。

ここからが説明版の本筋と悪読みする。やがて、浮世から身を隠すように京都をさり諸国を流浪し、言い伝えのある、当地(徳佐)そうけ(笊笥)庵にて、母子・侍女と共々ひっそりと、その悲恋の幕を閉じた、と結ばれている。

人目をひくこれだけのものが作り据えられているからには、幾ばくかの言い伝えが残されているのだろう。西日を浴びながら東の方を見つめる静の優雅な像を眺めながら、一途に生きた強くも悲しい女性の姿に哀れを感じた。

(写真:静御前の舞姿の像)
コメント (2)
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