この話は聞いており、碑が建立されたことは新聞で読んでいたが、見たのは初めて。旧本郷村役場の前にその碑はあった。碑文を書き写す。
山代十一庄屋
西村 冶右衛門(府谷村庄屋) 北野 孫兵衛(本郷村庄屋) 新原 神兵衛(生見村庄屋) 廣兼 七良兵衛(宇佐村庄屋) 岡 新左衛門(河山村庄屋) 中内 市助(南桑村庄屋) 宇佐川 五良兵衛(大原村庄屋) 山田 平兵衛(宇佐郷村庄屋) 中内 孫右衛門(波野村百姓)
義挙四〇〇年の由来
山代地方の11人の庄屋さんたち達が、一揆を主導した罪で処刑されたのは、今からちょうど400年前の慶長14年(1609年)3月29日のことでした。
山代地方の民百姓は「関ヶ原の戦」の後、防長二州に減封された毛利萩本藩から7割3分(73%)という過酷な年貢(税金)を課せられ、想像を絶する苦しい生活を強いられました。餓死する者があとをたたず、農民たちは、慶長13年(1608年)10月ついに一揆をお越しました。(後に慶長一揆という)
庄屋さん達は、相談の上「一味神水」身命をかけて「嘆願書」を携え、代官所に直訴しまいした。
後に年貢は軽減されましたが、庄屋さん達は一揆を主導した責任を問われ、11名全員が引地峠処刑場において「打ち首」となり、本郷川(物河河原)において哀れにも「晒し首」となったのです。
圧政に異議を申し立てたその気構えと魂の気高さ、さらに苦しい農民の生活と命を守った「義の心」は、400年を経た現在にも通じるものがあり、大いに学ぶべきであり、この精神を皆さんと共に後世に伝えるため、こん碑を建立しました。
平成21年(2009年)11月 山代義民顕彰会
「一味神水(いちみしんすい)」:中世の農民が一揆盟約する際の儀式。神前で起請文を書き、加盟者が署名したうえ、それを灰にして神に供えた清浄な水に交ぜ飲みまわす