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村上龍『歌うクジラ(上) 』

2018年08月30日 21時35分57秒 | 文学
村上龍『歌うクジラ(上) 』(講談社文庫)を読む。
敬語が使えるということが非常に特殊なこととして扱われている。
語り手のアキラは敬語が使える。父親は老化現象を起こさせるテロメアだかなんだかを切られて一日に十五歳も年を取らされる。
出逢う人物は敬語を使えないばかりか、助詞の使い方がめちゃくちゃで、読むのに一苦労する。
助詞の間違った文章を読むのはほんとうに疲れるものだということがよくわかった。
しかし、それは人々の抵抗を表しているのだというようなことも言われる。
サブロウさんと二人でアキラが新出島から脱出したときに女性と出会うのだが、その女性を「アンと呼ばれる女」「アンという女」とアキラは呼ぶ。他に出会う人間も「サガラという人」「ヤガラという人」「コズミという人」などと語られる。
そして、
《アンという女が、あなたがアキラだけれど名前がアキラと呼んでいい? と聞いて、うなずくと、あなたをわたしのことはアンと呼んでもいいからね、と隣のシートに移ってきて坐った。》(128頁)
とあって、この後から「アンと呼ばれる女」でも「アンという女」でもなく、ただ「アン」と書かれる。
《どうしたの、とアンが聞いて、父親が死んだ、とぼくは言った。》(130頁)
敬語というのは他人との距離感を表すものなので、敬語が使えるというのは他人との距離感に慎重であるということを表しているのかもしれない。
呼んでいいよ、と言われたときだけに、相手の名前を直接呼ぶことが出来る。
話し言葉に対する敏感さは『トパーズ』を思い出させる。

サブロウさんとアンのみ「という人」が付けられないのかと思いながら読んでいたら、猿女のネギダールも仲間を殺す宗文も「という人」が付かない。どうでもいいと思われる人物「ヒサユキハカマデ」にも付かない。アンジョウに付かないのはなんとなく分かるが。
「という人」を付けるか付けないかはどうでもよくなってしまったのだろうか。
そう考えると僕にとってもこの小説がどうでもよくなってくる。
いったい村上龍が何をしたいのか、僕にはわからない。
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