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佐藤優・中村うさぎ『聖書を読む』

2016年03月16日 00時10分08秒 | 文学
図書館で借りて佐藤優・中村うさぎ『聖書を読む』(文藝春秋)を読む。
前作の『聖書を語る』よりもきちんと聖書について語っている。それだけに読むのが少ししんどい。
「創世記を読む」「使徒言行録を読む」「ヨハネの黙示録を読む」の三つに分かれていて、その間に岡崎京子の漫画『ヘルタースケルター』と村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む。

「創世記を読む」のなかで佐藤優がドストエフスキーとトルストイについて語るところがあり、とても興味深く読んだ。
《ドストエフスキーは神様を信じてないと思うんですよ。というのは、信仰の話とか、それが過剰だから。僕は、あの人は革命家だと思う。若い頃から秘めていた皇帝暗殺計画、それが二重、三重、四重に彩色をほどこされて作品のなかにあると思う。》(210頁)
《いちばんの問題は主人公に共感できないこと。というよりは、主人公が誰かわからないから、読者は主人公に同化できないんですね。どうしてそうなるかといえば、彼が作品に込めた狙いは、革命と大混乱だからですよ。結局、神様を全く信じてない人だと思う、ドストエフスキーという人は。》
《トルストイはもっと単純で、素朴に神様を信じているけれども、その神様はすごく世俗化された神様で、神様の意に沿って清い心を持ち、精進すれば、理想的な世の中がやってきますよと。》
ドストエフスキーには狂信者のイメージがあるので、神様を信じていないと言われて驚いた。
固定されたイメージで他人を見るのはよくない。イメージを確認するために読むということに陥る。
彼が作品に込めたのが「革命と大混乱」という視点が新しい。だれもそんなふうに語ってこなかった。ただ、太宰治は『斜陽』で「恋と革命」について語らなかったかしら。

「使徒言行録を読む」と「ヨハネの黙示録を読む」には惹かれるところはなかった。「使徒言行録」はまだしも、「ヨハネの黙示録」のおもしろみがまったくわからない。荒唐無稽というほかない。
しかし聖書というのはそんなに二千年もかけて読むべき本なのだろうか。私にはいまだに理解できない。

「『ヘルタースケルター』を読む」で中村うさぎが自身の整形について語るのがおもしろかった。
整形することによって、自分の顔の美醜に責任がなくなった。美しいと言われてもそうでないと言われてもそれは施術した医者の責任だ、それで楽になった、という話だった。

「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む」では佐藤優の読みに感心した。ここまでこの小説をきちんと論じたものを私は知らない。佐藤優の小説の読み方をもっと知りたいと思う。
中村うさぎもきちんと読んでいる。しかし佐藤優のほうが興味深い。
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