遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫)読了。
ひとまず新約聖書の四つの福音書の話の流れを知ることが出来る。
イエスは母のような存在で、その弟子たちは我々のように弱い。イエスは奇跡を起こすことはなく、弟子たちはイエスの気持ちを理解することはなく、イエスは孤独だった。イエスが死んで弟子たちは自分たちの使命感に目覚める。
おおざっぱに言うとそのような話だった。
どこまでが遠藤周作の考えでどこからが一般的な解釈なのかよくわからない。
「母のようだ」とか「我々のように弱い」とかいうのは遠藤周作的というか、当時の日本的な話なのだろう。
弟子たちは我々のように弱かったとか言われると、「我々って誰だよ」と思ってしまう。当時はそんなふうに思わなかったのだろう。「我々」と言えば「この我々」だったのだ。そこに疑問はなかった。一体感がたぶんあった。
しかしイエスが母のようだ、というのは本当なのだろうか。しかもこの母は、遠藤周作の思う日本の昭和初期の母親像(「ヨイトマケの唄」的な)なのだろうけど、そりゃ違うだろう、と思ってしまう。
ひとまず新約聖書の四つの福音書の話の流れを知ることが出来る。
イエスは母のような存在で、その弟子たちは我々のように弱い。イエスは奇跡を起こすことはなく、弟子たちはイエスの気持ちを理解することはなく、イエスは孤独だった。イエスが死んで弟子たちは自分たちの使命感に目覚める。
おおざっぱに言うとそのような話だった。
どこまでが遠藤周作の考えでどこからが一般的な解釈なのかよくわからない。
「母のようだ」とか「我々のように弱い」とかいうのは遠藤周作的というか、当時の日本的な話なのだろう。
弟子たちは我々のように弱かったとか言われると、「我々って誰だよ」と思ってしまう。当時はそんなふうに思わなかったのだろう。「我々」と言えば「この我々」だったのだ。そこに疑問はなかった。一体感がたぶんあった。
しかしイエスが母のようだ、というのは本当なのだろうか。しかもこの母は、遠藤周作の思う日本の昭和初期の母親像(「ヨイトマケの唄」的な)なのだろうけど、そりゃ違うだろう、と思ってしまう。
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