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コルム・トビーン『マリアが語り遺したこと』

2016年03月12日 00時31分22秒 | 文学
コルム・トビーン『マリアが語り遺したこと』(新潮社)を図書館で借りて読んだ。
イエスの母親マリアが息子の死後だいぶ経って過去を語るという小説で、井上靖の『孔子』や『本覚坊遺文』が好きなのでこのような小説は見逃せないと思い読んでみた。
短い小説なのだが、途中ものすごく挫折しそうになった。
これはあの、「わかるひとにはわかるでしょ」タイプの小説で、聖書をよく知っている人が、これはあの場面だけれどもこの作家はこのように解釈したのか、ふむふむ、と思いながら読む小説なのかもしれぬと思うと、なんだか私には関係のない小説のように思えてきて、やめてしまいそうになった。
しかし短いものだし、せっかくなので読んでおこうと思い最後まで読んだ。
遠藤周作の『イエスの生涯』はイエスが全く奇跡を起こさない小説だったが、この小説では怪しいながらも奇跡を起こす。死んだラザロを復活させ、水をワインに変える。ラザロを復活させたのはマリアが自分の目で見たことではないから、正確にはこの小説で起きる奇跡はイエスが水をワインに変えることで、それはマリアの目の前で起き、マリアはなんとなく怪しんでいるふうに語る。
イエスが磔刑で死んで十字架から降ろされたときそこにマリアはもう居なくて逃げていたはずなのに、マリアから話を聞き取ったひとがそこにマリアが居たことにしたのだとこの小説ではしている。
それとマリアは息子が神の子であるということも否定しているように取れる。
マリアが語った都合の悪いことは福音書にもパウロの手紙にも残らなかったという話になっている。
そのようにやはり、「わかるひとにはわかるでしょ」タイプの小説だった。この作家の聖書の解釈を読むだけであまり物語には夢中にはなれない。

もっともおもしろかったのはマリアがイエスに会いに行って、イエスが、
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか?」
とおそらくこの小説のなかで唯一語る場面だった。
男の子が大きくなって小さな集団のリーダーになったりして、そこに母親なんかにやって来られたら、こんな態度をとるかもしれないなと思った。
と同時に、ここで私はマリアにもなっていて、せっかく育てた息子がまるで目の前で石になったみたいに何も通じない人間になってしまっていてひどく悲しい気持ちになった。
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