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山本七平『小林秀雄の流儀』

2016年03月02日 23時41分35秒 | 文学
山本七平『小林秀雄の流儀』(文春学藝ライブラリー)読了。
読んでいると、引用が多くて、さらに引用された小林秀雄が引用し、途中誰が言っているのか分からなくなることもあったのだが、やはり小林秀雄のものを読んでみたくなった。とくに読もう読もうと思いながら読んでいない『ゴッホの手紙』と『ドストエフスキイの生活』は読まないといけない。
聖書に対する興味も山本七平のこの本から起きたことなので、なかなか深い本であった。小林秀雄を読んでいても聖書への興味はふつう持たない。
だが考えてみれば小林秀雄のものの考え方は、宗教的なのだな。何かを信じるということについてしばらく考えたい。
小林秀雄はまずは対談の再読から始めたい。

昭和十四、五年の「ヒットラー熱」について書かれてあるところがあり興味深く読んだ。(248頁あたり)
日本でヒトラーが人気があった時期のあることをぜんぜん知らない。
フランスのヴィシー政権については最近よく語られるが、こういうことをみんなが忘れてはいけない、とまでは思わないが誰かが憶えておく必要がある、とは思う。そしてたまに言う必要がある。
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橋爪大三郎・ 大澤真幸『ふしぎなキリスト教』

2016年03月02日 00時01分35秒 | 文学
”遠藤周作でたどる聖書”の第一回として(遠藤周作ではないが)、橋爪大三郎・ 大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)を読んだ。
第3部はいらないのではないかと思った。退屈した。ただハイデガーが哲学をやっているようで神学をやっているというような話があり、納得した。ハイデガーの『存在と時間』の難しさは、キリスト教的な文脈で、彼らの問題意識で、読めないことからくるのかもしれない。

第1部の最後あたりで、学生が《キリスト教とかユダヤ教とかを「信じている」という心の状態がなかなか思い描きにくいよう》(120頁)だということを大澤が言っていて、確かにそうだ、僕も学生ではないが思い描けない、と思い、後の議論に期待した。しかし、やはり最後まで読んでもその心の状態は思い描けない。
「信仰とはあなたがよく知っている◯◯みたいなことだ」と言ってくれたりしたらいいのだが、誰もそんなことは言ってくれない。たぶん、そのような比喩の使えないことなのだと思う。
この”遠藤周作でたどる聖書”シリーズで、もしそこらへんが理解できたら岡本太郎みたいに「信仰は◯◯だ」と言ってみたい。

第2部ではキリスト教は福音書ではなくパウロの手紙から始まったということを知った。
なんどか聞いたことのあるような気もするが、忘れてしまっているのであれば初めて聞くのとおんなじだ。
パウロというのはペテロと区別がつかないが(といってペテロについて詳しく知っているわけではなくまるで知らないが)、偉い人なんだなと思った。挫折を知っている人はすばらしい。
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