ダブログ宣言!

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☆ルソー「告白」上巻

2007年12月20日 20時54分51秒 | 文学
告白 上ルソーの「告白」の上巻を読み終わった。
いつかテレビでフランスではバカンスに浮気をするのが普通というようなことが言われていた。確かアンケートの結果、バカンスに恋人を作った人が何パーセントとか言ってて、かなり高かったように思う。(ほんとかどうかはわかりませんが)
「ママン」と呼ばれるヴァランス夫人が、ルソーがちょっと旅行しているあいだに早速べつの浮気相手を見つけてて、帰ってきたルソーに対して冷たくなっているのがすごいな、と思った。
上巻ではほかに、青年ルソーが次から次へと職業を変えて、どんどん貧しくなっていくあたりが印象に残っている。
僕がルソーに興味を持っているのは彼の晩年の人間不信のところなので、これからどんどん依怙地に偏屈になっていくのだろうと期待している。
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☆村上春樹「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」

2007年12月19日 23時35分02秒 | 文学
村上春樹の短編集「東京奇譚集」の、
「偶然の旅人」
「ハナレイ・ベイ」
を読んだ。このまま他の三つも読んでいいんだけど、なんだか読んでしまうのが惜しまれるくらいにおもしろい。
「偶然の旅人」は涙が出るほどにうまい短編だと思う。ほんとうに感動した。
もっと昔、十年くらい昔であれば、この短編を読んだときに目に付くのは「かたちのあるものとないものではかたちのないものを選ぶ」というような台詞だったのだろうが、最近はあまりそういう何か意味ありげの台詞の意味を解釈しようという気にはならず、はあそんなもんですか、「かたちのあるものとないものではかたちのあるものを選ぶ」と言ってもあんまり変わりませんな、という気持ちにしかならない。
どこがいいのかうまくは言えないが、「耳のほくろを見る」と「姉に電話をかける」のあいだが読んでいてほんとうに自然につながったなと思えるあたりだと思う。
「ハナレイ・ベイ」を読んで、最近の若者というのは、南部アメリカ文学の翻訳に登場する東北弁を話す黒人のようなものなのだな、と思った。主人公のモデルは綾戸智絵か?
久しぶりに村上春樹の短編を読んで、個々のパーツではなく、全体の芸のうまさにひどく感心してしまった。

ここでちょっと整理しておきますと、わたしの読んでいるのは現在、
ルソー「告白」
森鴎外「渋江抽斎」(以下「シブチュー」)
そして、
村上春樹「東京奇譚集」
です。
通勤時間に「告白」を読み、家で「シブチュー」、その他ゲストが入るといったところです。
はじめはなかなかおもしろかった「シブチュー」ですが、家の細かな事情の話になって少し退屈です(現在「その四十九」)。幕末になってきたのでまた興味が出てきつつあるところ。最近は、黒船とペルリ(ペリー)が登場すると「やっとおもしろくなってきた」という気分になる。
森鴎外の「渋江抽斎」は新聞の連載小説で、毎日新聞が朝日新聞の夏目漱石に対抗して鴎外に頼んだがとっても不評だった。「渋江抽斎」の連載が終わったときに新聞社側はやれやれと思ったのに鴎外はさらに同様の史伝もの「伊沢蘭軒」「北条霞亭」を書き続けた、頼んだ手前新聞社側も断れない、という話を猪瀬直樹の本で読んだが、なるほどこれはさすがに当時でも不評だろうな。
毎朝、新聞の小説が渋江抽斎一家(とその付近)の変わりばえのせぬ日常じゃ、さすがに飽きる。

年末のひと言。
「教えてくれ、今年の東映のニューフェイスは誰だったんだ。」
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☆原りょう「さらば長き眠り」は傑作

2007年12月18日 22時34分30秒 | 文学
さらば長き眠り「りょう」の字が出ないので仕方なくひらがなで書いている原りょうの「さらば長き眠り」を読んだ。
なんでこんなにおもしろいんだろう。いい仕事してますね、といった感想。
「眼顔」という日本語を知らなかった。「真顔」の間違いかなと思って読んでいたら「真顔」も出てくるし「眼顔」も出てくる。辞書には「目顔」という言葉があった。
そういえば「憮然」も正しく使われていた。
やはりプロフェッショナルだ。

なぜ言葉の間違いがいけないかといえば、そのようなことが続く作家を信用できなくなってしまうからだろうと思う。お前なんかに馬鹿にされてたまるか、たまたまだ、と思うかもしれないが、やはりたいしたことないんじゃないかな、とどうしても感じてしまうものだ。
喩えて言えば浦辺粂子の手品を見るようなもので、手品を愉しむ以前に「大丈夫かな」という気持ちになってしまう。(我ながら喩えが古い)
誤字が多かったり、辞書を引くことを怠っているなと感じるような作家は、書いてあることの半分かそれ以上嘘、または適当なんじゃないかなあ、って感じてしまう。もともと全部嘘なんだから読んでいる間はほんとうだって思いたい。
「報道ステーション」は見るたびに、伝えたニュースの訂正とそのお詫びが挟まれるのを見て全部嘘なんじゃないかと思いあまり見なくなった。(「報道ステーション」の最終回では番組の終わりに古舘伊知郎が「いままでこの番組でお伝えしてきたことは、ニュース、お天気、CMも含めすべて大うそです。申し訳ありません。お詫びしますが訂正はできません。ではさようなら。」と言うのかもしれない。)
似たようなことで、トイレが汚かったり声はすこぶる大きいが注文を間違ってばかりいる店員のいる店は料理も適当だろうと思ってしまう。

ところで「さらば長き眠り」でなぜこれまでの沢崎シリーズが終わり、次の作品から新シリーズが始まると言うのか、その意味するところが全くわからなかったのだが、読んでみてようやくわかった。
そういうことか。
これまでずっと続いてきたあの問題が解決してしまった。
ということは、次の作品はどうやるんだ? 非常に興味がある。

こんなことはもう誰でも気づいていていまさら何言ってんの、なのかもしれないが、原りょうの小説のタイトルはすべて7文字だ。
「そして夜は甦る」
「私が殺した少女」
「天使たちの探偵」
「さらば長き眠り」
「愚か者死すべし」
エッセイ集まで7文字。
「ミステリオーソ」
「ハードボイルド」
ということは来春発売されるという新作もおそらく7文字なのだろう。
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☆ダッグ・アウト

2007年12月17日 23時18分07秒 | 文学
原りょうの「さらば長き眠り」、実におもしろい。ほんとうにおもしろいのでずっと読んでいる。現在260ページ。
あいかわらずかっこいいなあ。
ジョーク(といっていいのかな)がたいへん可笑しい。
どういうところが可笑しかったか、いまぱっと思い出せるところでは、病院に呼ぶときに、監督だけ呼んで、野手と外野席の応援団のひとには内緒に、といったようなところがおもしろかった。
こういうのは読んでみないとわからない。何を言っているかもわからない。

ここまで読んだ中で、沢崎はどうやって魚住がゴルフ場の受付に行ったことを知ったのかがわからなかった(115ページ付近)。たぶんどこか読み落としたのだろう。このようなことは非常によくある。
おそらくこれまでの過去の作品の出演者だろうと思われる人たちが多数、同窓会のように顔を出してくるのだが、これももちろん誰がだれだか全く憶えていない。
原りょうの「私が殺した少女」での直木賞受賞が1989年で、そのときすぐに買って読んで、非常におもしろかったのですぐに「そして夜は甦る」も読んだのだが、18年も前のことなので内容をさっぱり忘れてしまっている。

野球場のベンチのことをこれからは「ダッグアウト」と呼ぶことにする。
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☆「渋江抽斎」のすゝめ、「探偵ガリレオ」の感想

2007年12月16日 22時49分16秒 | 文学
たとえばレンタルビデオ店のDVDのパッケージの裏側に、それまでその作品をレンタルした人たちの名前のリストが貼ってあるような個人情報丸出しの店があったとして、自分が借りる映画に必ず、ある人物の名前がリストに存在していたら、とっても気になると思う。
そして気になるあらゆるDVDのパッケージ裏の名前のリストを確認してしまう。
しかも同じ監督の作品であっても、自分が好きな作品にはその人の名前がリストにあり、見てはいないがおそらく失敗作に違いないと思われる作品にはその人の名前がなかったらとっても親近感がわいてしまうと思う。
そして店員に「この○○さんってどういうひとなんですか?」と勇気を出して訊いて、「あっ、あのひとですよ、ほら」って今まさに店から出て行こうとする人の後姿を指さされたりするようなことがあったら、急いで追いかけていって、
「すいません、わたし、あなたのこと他人と思えないんです。だって好きな映画が全部いっしょで、嫌いな映画の嗅覚までいっしょで、しかもアダルトビデオの趣味までいっしょなんてほんとうに奇跡としか思えません。ちょっととりあえず携帯のアドレスを教えてください。あやしいものではありませんので」
などと言ってしまわないだろうか?
わたしは言わない。
言わないが、しかし言いたくなる気持ちには少しなるだろう。
森鴎外の「渋江抽斎」はこんな話だと思う。
思ったよりも読みやすく、興味を惹かれる話だ。

探偵ガリレオ (文春文庫)「渋江抽斎」を途中まで読み、ちょっと読んでみようと思って東野圭吾の「探偵ガリレオ」を読んでいたら最後まで読んでしまった。
テレビドラマよりはおもしろいが、これまで読んだことのある東野圭吾作品以上かといえばそうでもないだろう。

今日は久しぶりにデパートに行き、書店で本をたくさん(ってほどでもないけど)購入した。
村上春樹「東京奇譚集」
フィッツジェラルド(村上春樹訳)「グレート・ギャツビー」
原りょう「さらば長き眠り」
の3作。
今年の読み残しは今年のうちに、というラインナップになった。
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☆「森鴎外全集」5巻

2007年12月15日 22時42分30秒 | 文学
山椒大夫 高瀬舟―森鴎外全集〈5〉 ちくま文庫今日の森鴎外、
「魚玄機」
「じいさんばあさん」
「最後の一句」
「高瀬舟」
「寒山拾得」
「玉篋両浦嶼」(「たまくしげふたりうらしま」と読むようです)
「日蓮聖人辻説法」
「仮面」
を読んで、全集の5巻を読み終わった。
「山椒大夫」はまあいいかと思って読んでいない。溝口健二の映画を見たときの、田中絹代の「あんじゅー、ずしおー」の叫びを思い出しそうでもう読まなかった。思い出しそうで、って書いただけでも思い出してしまう田中絹代の独特な言い回し。頭に残る(ちょっと不快で)独特な言い回し選手権で立松和平に匹敵すると思う。

「じいさんばあさん」は、じいさんとばあさんが笑いながら逃げていくわけのわからない話かと思っていたら、それは「寒山拾得」だった。「じいさんばあさん」は長く連れ添っていたわけでもない老夫婦が長く連れ添ったように見えるというという心温まるお話。
「寒山拾得」はやはり意味のわからない話であった。この話を読んでいつか納得することがあるんだろうか。
「高瀬舟」。久しぶりに読むがやはり学校教育の影響は絶大で、足るを知るということと安楽死という切り口以外で読むことが出来ない。国語の授業で読んだときに「笛」が「のど笛」のことであるということに驚いたことと、そこからひゅーひゅー音がする場面が怖かったということも想い出した。
弟を殺した喜助は高瀬舟に乗ってこれから死刑なんだとずっと思っていたが、遠島になるのだった。そこは発見だった。
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☆ブラッド・バード監督「レミーのおいしいレストラン」感想

2007年12月15日 00時00分00秒 | 映画
レミーのおいしいレストランレンタルしてきた「レミーのおいしいレストラン」を見る。
期待したほどはおもしろくなかったが、「Mr.インクレディブル」ほどではないにしてもおもしろいのには違いない。
しかし、やはりちょっと無理があるかなという感じだった。
料理批評家がママの作ったラタトゥイユの味を想い出すシーンはほんとうにいいシーンで、あれを見られただけでもこの映画を見た価値はあると思う。

もちろん今日も森鴎外は読んだ。
「安井夫人」。
で? っていう感じの話だった。
歴史に作者の手を入れないという森鴎外の思想がこの先どこまで行くのやら恐ろしくもあり、恐ろしくもある。(ちょっぴり楽しみ。)
とりあえずの目標はこのまま、名作とよく聞く「渋江抽斎」まではたどり着きたい。
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☆森鴎外「大塩平八郎」「堺事件」

2007年12月14日 01時04分03秒 | 文学
相変わらず今日も森鴎外。
「大塩平八郎」と「堺事件」。
「大塩平八郎」はたくさん人が登場し追いきれなかった。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」や「坂の上の雲」の戦いの場面を思い出した。そういえば「坂の上の雲」は途中やめになってしまったな。NHKでドラマになるときに読もうか。
司馬遼太郎で言えば「覇王の家」などの家康ものに興味がわいている。そのうち読もう。

大岡昇平の日記に「堺事件」のことがしきりに出てきていたので、当時いつか読もうと思っていたが、とうとう読んだ。十年越しだ。
「大塩平八郎」に比べてこちらはおもしろかった。
侍たちが打首を嫌い、どうしても切腹させろと言い張るところにいたく感心した。
どうせ死ぬのだからどっちでもいいやんと思うがそうではない。
彼らにとってはどのように死ぬかが大問題なのだ。
人間は幻想の中で生きて、死ぬるんだなあ。
江戸の「打首は恥ずかしく切腹は立派」と思う死も、現代の「どうせ死ぬのだからどっちでもいいやん」と思う死も幻想であることに変わりはない。
次から次へ切腹していく姿を見せられて「もうやめてっ!」って思ったフランス人の気持ちがよくわかる。
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☆森鴎外の「ながし」など

2007年12月12日 23時08分07秒 | 文学
森鴎外全集〈4〉雁 阿部一族 ちくま文庫森鴎外の「ながし」「鎚一下」「天寵」「二人の友」「余興」を読んだ。
ここ数日で、ちくま文庫の「森鴎外全集」の4巻目を「雁」以外読んだ。
「雁」は何年か前に読んだしそんなにおもしろかったという記憶もないので、今回はパス。またいつか夏目漱石の「三四郎」を読むときにでも比較のために読んでみよう。
いまは5巻の「大塩平八郎」を読んでいる。なかなか変わった書き方をしているように思う。

今日読んだ中では「ながし」がもっともおもしろかった。
継母にいじめられる話だった。ながし、とは「お背中流します」の流し。
「天寵」もなかなかおもしろかった。若いころの焦る感じが良く出ている。
「二人の友」のなかに、あんまり親しくするとそのあとで厭になって距離を置くという場面が出てきて、うんうん、そういうことってあるな。しかしこれまではっきりとそれについて言ってるのを聞いたことはないな、誰でもそうなんだ、と思った。
語り手が鴎外自身に近い設定で、話も鴎外の身近に起きそうな話であったりすると、大江健三郎を思い出して、大江健三郎の小説が読みたくなってしまうから不思議だ。

歴史小説以外の鴎外の小説を読むと、歴史小説の読みにくさが際立つ。
たとえば、切腹した人が10人なら10人いたとして、10人それぞれの生まれた場所や親の名前をいちいち書く必要がどこにあるのかと思うが、それを読むことが(または読み飛ばすことが)鴎外の歴史小説を読むことなんだろう(と諦めている)。
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☆毎日森鴎外

2007年12月12日 00時37分43秒 | 文学
NHKで「毎日モーツァルト」という毎日モーツァルトの音楽と著名人のインタビューを流す画期的(!)な短い番組があったが、それと同じように「毎日森鴎外」という、毎日ちょっとずつ森鴎外の作品を読んで、それにまつわる著名人のインタビューを放送したらいいと、思ったりするがたぶんあまり人が見ない。
「毎日プルースト」だったら、意外と好評かもしれない。1日10分の番組で10年くらいは続くかなあ。10年で終わればいいけど。長寿番組なので朗読は江守徹では読み終えることができるかどうかあやしい。若手で声が良くて本が読めてしばらくは麻薬で捕まりそうにない俳優って、いるのかどうか知らないが、NHKだから山本耕史がやるのかなあ。帰ってきた関口知宏でもいいかもしれない。
僕は確実に毎日見る。

今日も森鴎外を読んだ。
「護持院原の敵討」(ごじいんがはらのかたきうち)を読む。
昔は敵討ちというものがお上に認められていて、肉親を殺された人は仕返しをしてもよかった、ということをたぶん菊池寛か誰かの小説を読んで知ったときにたいへん驚いたことを憶えている。なんて野蛮な、と。
また今回、「護持院原の敵討」を読んで、敵討ちに対する認識が変わった。
敵討ちはたいへんだ。顔もよくわからないしどこに行ったかもわからない人間を日本全国歩いて探すなんてすごいことだ。
その、すごいことだということがたいへんよくわかった。
父を殺された息子が叔父といっしょに敵討ちの旅に出るが、途中で投げてしまうのがおもしろい。
そのあとの息子の消息が全く出てこないのもおもしろい。

原りょうの「愚か者死すべし」が文庫になっていたとは知らなかった。迂闊でした。
しかしその前に「さらば長き眠り」を読まなければ。
「さらば長き眠り」はたしか題材が高校野球であることにひっかかりを感じて読まなかったのだが(「高校野球なんて知らねぇ」)、今年は生まれて初めて高校野球にはまったので読んでもいいかもしれない。
僕は原りょうは読んで、チャンドラーは読まないのだが、今日書店でチャンドラーの新訳の短編集が早川文庫から出ていることを知る。訳者は村上春樹ではないようだが、タイトルは、
「キラー・イン・ザ・レイン」
「トライ・ザ・ガール」
「レイディ・イン・ザ・レイク」
「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」
の4冊。
もうちょっと、なんていうか、恥じらいのようなものがあればいいなあ。
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