とっておきの速度計算(石川泰著)

2024-03-16 00:00:35 | しょうぎ
将棋教室で教えていると、相手玉が一手詰状態なのに、自分の飛車が逃げ回ったりする子が多い。もっとも有段者だって、一手詰を見逃し、受けに回ったりすることもある。

終盤の入口のあたりから、速度計算をしていればそういうことにならないのだが、最近の守りの薄い将棋では、一手の遅早がわからないとなかなか勝てない。

ということで終盤の寄せ合いの局面に限定した本になっている。詰めろの感覚、手ぬいた場合の速度、自玉の受けを考慮した速度、相手の受けを考慮した速度、攻防手、Z、玉頭戦というようなことが書かれている。



なかなか発想がいいのだが、平均的に初段あたりの人向けの様に感じるが、初段より上の人と初段になれない人というように上下に分かれているような気がする。

それと、図面の間違いとか、解説不足もあったかもしれない。


3月2日出題作の解答。








今週の出題



解ったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

幸せのパンケーキ(淡路)

2024-03-15 00:00:05 | あじ
淡路島に行くことはずっと前から決めていて、『幸せのパンケーキ』は目的地の一つに決めていた。淡路島観光が盛り上がっているキッカケの一つだ。ところが、横浜に帰ってから調べてみると、都内にも大阪にも札幌にも大宮にもそして横浜中華街にも既に支店がでている。

しかし、横浜中華街でパンケーキとは驚き。山下公園前にはハワイのエッグスンシングスが既にあるし(ホノルルの本店とは全く感じが違うが)。

いずれの支店にも足りないもの。



それは、『海』ということかな。



海岸道路の海側に店舗は横に拡がるが、これがテラス、一階、二階、レストランと大展開しているし、道路を挟んだ斜面には段々畑のように作られた四段になった駐車場。入店には番号札。すべての人が三枚ずつのパンケーキを注文するわけだ。



場所は淡路島の中北部、北淡(ほくだん)。ここから南に向かってサンセットロードが続く。これがもっと北だと本州に近くて海の解放感が低いのかもしれない。大変大きな島ではあるが、テラスから海を見ていると、孤島のような気分に浸れる。海だけを見て決して振り返ったらいけない。四段重ねの駐車場が見えてしまう。



北淡震災記念公園

2024-03-14 00:00:10 | たび
決して観光地ではないが、地震の記憶ということで、淡路島北部では、はっきりした形で断層のずれが地表に残ったということで、保存施設ができている。



1995年1月17日、六甲山から淡路につながる断層の下、つまり明石海峡の地下16キロを震源として直下型地震が発生。震度7、死者6000人以上の大災害となったが、淡路北部の地表に現れた野島断層が、そのままの形で保存されている。



野島断層は1~2mの横ずれと、1mの縦ずれが同時に起きている。2000年間眠っていた断層だそうだ。六甲山(海抜931m)はもともと海中にあり、南から北へ押し込まれて1000mも持ち上がったようだ。一回の地震で1mずつ高くなるとすると今までに1000回の大地震があり、それが2000年に一回の割だとすると、200万年ということになり、だいたい理解できることになる。地球の歴史からすると、それでも2000分の1。



しかし、本当に大きな地震、よく起きていると思う。阪神淡路大震災の時は村山富市内閣、東日本大震災の時は菅直人内閣と政治的バランスが変った時に震災が起きているのは単に偶然だろうが、そろそろそういう時期になっていているような気もする。

鳴門の渦を見に行く

2024-03-13 00:00:41 | たび
淡路島は島と本州や四国との間が海峡になっている。和歌山との間が広そうに見えるが紀淡海峡(あるいは友ヶ島水道ともいう)で間に4つの横長の島がある。明石との間が明石海峡幅が3.6Km、四国との間が鳴門海峡で幅が1.3Km。

以前、海運会社にいたが、会社所属船は鳴門海峡の航行を禁止していた。幅が狭く、漁船が多いというだけではなく、潮の流れが速く、潮流は最速で10ノット(18.5Km)にもある。通常の瀬戸内海での航行速度が10ノットなので、潮に向かえば前に進まないし、潮に乗れば通常の倍速になりどちらも危険。一日に2回転潮するので、間違えたら大惨事になる。太平洋と瀬戸内海を結ぶには鳴門海峡の方が2時間ほど早いが、リスキーといえる。

鳴門海峡の渦潮を見るには、方法としては観潮船に乗るか、鳴門大橋の下に設置された「渦の道」という徒歩の橋を歩くかになる。その道は徳島県側からなので、淡路島から行くには有料の橋を車で渡らないといけない。地元でレンタカーを借りているので、有料道路の通行料が必要だ。一方、観潮船は淡路からと鳴門市側からの両側から出ている。



ということで、まず淡路島南部の福良港に行って船を確認する。渦潮に巻き込まれてしまう小説があった。エドガー・アラン・ポーだったか。小説の結末は覚えていない。ちょっと嫌になったのは船の名前。『咸臨丸』となっていた。太平洋を渡った船のデザイン盗用の上、鳴門の渦潮1時間2500円とは、ちょっと主義が合わない感じで、歩きの方にする。それに船の上からではなく橋の上からの方が良く見えるのではないかとも思ったわけだ。



そして道すがら立ち寄ったのが、「おっ玉葱」。淡路側から海峡を望む場所だ。淡路島の名産。島に行く前に東京日本橋にある「すもと館」で情報収集した時に、館内で淡路特産の牛丼をいただいたのだが、淡路牛と玉ネギ、そして千光寺にちなんだ千光米で作られた牛丼はチェーン店のものとは別種の料理だった。鶏糞を肥料に使うのが淡路農業のようだ。



そして橋の下の有料駐車場から、凍えるような寒風の中を歩くこと10分で「渦の道」につくが、ここからさらに10分、凍えるようではなく凍り付くような強風のなか、海の上を歩いていく。



そして見たのが、さっきみた咸臨丸。渦潮見るのではなく、走り回って自分で渦潮を作っているようにもみえるが、船上から見るとどうなのだろう。



なんとなくそれっぽいのをいくつか見たが、20から30mの大型渦潮は発見できず。



余りの寒さに、特産品の鳴門金時の焼き芋に救われる。

神話の島

2024-03-12 00:00:04 | たび
淡路島は国生み神話と大いに関係がある。古事記によるとイザナギノミコトとイザナミノミコトの二柱の神が空の上から長い矛で地面をかき混ぜて矛を持ち上げるとしずくがボタンと落ち「おのころ島」になり、そこに両神が着地し、数多くの島を作り始めたと言われる。スプーンからスープがこぼれてテーブルクロスに染みができるような感じだ。

おのずから(自から)凝り固まった島という意味で、淡路島の近くの島ではないかと考えられている。淡路島は本州と同様に地上に降りた神様が作ったことになっているので二次的な島ということになる。




ということで、最初に島の南部の「おのころ島神社」に行く。淡路島は北中南別に、淡路市、洲本市、南あわじ市の三市にわかれ、それぞれ東と西、さして南あわじには南というパートに分かれる。「おのころ島神社」は南の西側。



どちらかというと、自然発生的な地神感がある。神社には神や人ではなく山や岩や森といった天然物を祀るという場合がある。また神話の神様を祀る場合、特定の個人を祀る場合などに分かれるが、ここは神が降臨するより前(あるいは神話が成立する前)の時代から信仰があるのではないだろうか。




日を改めて北部の淡路市(西側)にある「伊弉諾(イザナギ)神宮」へ。こちらの方が堅い感じだ。働き過ぎたイザナギノミコトが余生を過ごしたといわれる神社だ。立派感はこちらの方が上だ。岡山の『吉備津神社』と『吉備津彦神社』のようなのだろう。



夫婦(めおと)大楠という樹齢900年の大楠が、根元で合体してしまったように見える。夫婦大樹というのは楠に限らず杉だったり別種の樹木だったりして夫婦円満の象徴とも言われるが、それぞれの木からすれば、何百年も窮屈な思いをしているとも言える。相手が早く枯れればいいと思っているはずだ。だから夫婦と言われるのかもしれないが。

淡路島の城

2024-03-11 00:00:04 | The 城
淡路島は佐渡に次ぐ二番目の大きさの島で、大阪湾にあって直角三角形の形で三つの角が鳴門海峡、明石海峡、紀伊水道によって本州、四国と地を別にしている。

農業と漁業に島と思っていたが、農業は三毛作(コメと玉ネギと野菜)だし、魚は高級魚が多い。昨今は観光ブームで東海岸は日の出、西海岸は日の入りを楽しめる。

江戸時代までは淡路は阿波と一体化して、江戸時代は蜂須賀藩の一部となっていた。この蜂須賀家だが、絵本太閤記の中で、羽柴秀吉と矢作川にかかる矢作橋で出会った夜盗(蜂須賀小六)と書かれていて、その後、明治時代になって知事になっても「元は盗賊」というように思われていた。秀吉の部下だったが、関ケ原では小早川家と同様、戦場で寝返り。大坂の陣の後、徳島に加え淡路も手に入れる。



さっそく洲本城に登る。標高336m。三熊山頂上に模擬天守が立つ。周囲一望できる。天守の場所は上の城といわれ、もっと下の方に下の城がある。下の方に蜂須賀藩の家老の稲田家の屋敷があった。二重支配になっていた。



幕末には徳島(蜂須賀家)は公武合体(佐幕派)で淡路(稲田家)は尊皇派と分かれていた。明治になって、大名は華族になり、大名の家臣は士族になったが、稲田家は家臣の家臣ということで士族になれないことになり、二派の間で殺戮があり、明治政府は喧嘩両成敗という激痛を与えてしまう。さらに淡路島は兵庫県に組み込まれる。



淡路島は要所であり、数々の攻防戦が行われたそうで城跡は7カ所あるし、江戸末期、明治期、昭和期と外国軍の上陸に備え砲台が置かれ遺跡になっているが、実戦で使われることはなかった。

もちろん、本州からは明石大橋から高速バスに乗り、途中で路線バスに乗り、ホテルの窓から豪快な月夜を味わうことができる。そして朝日も見事。


菜の花畑に桜や桃や

2024-03-10 00:00:22 | おさんぽ
TVで紹介された菜の花畑、車で5分以上10分以内というところにある横浜市営地下鉄(といっても地上を走っている)の川和町駅の近くにある。

雪が降る直前に行くと、同じような行動を取る人が多く畑の周りに集まっている。畑の周りに人が集まるというのは殺人事件の仏様の捜索のようで嫌だが、そこまでいって見ないわけにはいかない。



広大と言うことはないがとりあえず一面菜の花の黄色のように撮影することはできる。

しかも、菜の花を背景に早咲きの桜や、桃の撮影もできる。



桜の原木は網代市の漁業組合の網干場にあったそうで、大漁桜と名付けられている。



桃の品種は不明。

私は畑地には入らないが、畑の中の桜に接近して撮影しようとバズーカ砲のように長いレンズのカメラを持って畑地に侵入するオジサンがいた。たぶん鉄道撮影でも線路内に入ったりするのだろう。私有地不法侵入だ。私人による現行犯逮捕がふさわしいかな。

順位戦、次々に終わる

2024-03-09 00:00:36 | しょうぎ
将棋名人戦リーグ(と言わずに順位戦と言うのも不思議だが)がC2組以外は終了。

C2は8勝1敗が3人、7勝2敗が6人と混戦で、さらにこの9人がいずれも最終局で対戦しないため、9人全員に昇級チャンスがあるということになっている。人数が多過ぎて、もう一つ組があってもいいように思う。

A級:斎藤八段まさかの降級。思いたくないが煙詰作成で溺れたのかもしれない。中村八段、A級昇級と同時に弱気な発言が多かったが、なんとか。昨年も最後に負けて昇級諦めた後に朗報。今回も負けた後、朗報。ただ、昨年のB1の最終局で佐々木八段と順位が入れ替わって下になった関係が続くことになった。

B1:最終局を前にして5勝6敗の棋士が4人いて、全員勝つと6勝6敗で降級ということだったが、そういうことにはならなかった。昇級した増田(新)八段は、自宅ではプラ駒を使っているそうで、いわば駒師の敵と言うことになる。たぶん盤もビニールだろうから盤師の敵でもあるだろう。

B2:最後に昇級枠に滑り込んだ石井(新)七段。四段になった時は、将来はA級八段間違いなしと言われたが、到達するのだろうか。確かにゆっくり上昇しているのだが。これでB1級に同門三人が所属することになった。

C1:先崎九段、降級点を消す。実感はないが降級点は嫌なものなのだろう。もっともその制度がないと、即降級というのだから、物は考えようなのだろう。これで2年の余裕が生まれたので「うつ病完治九段」とか執筆したらどうだろう。売れないと色々とまずいだろうけど。代筆頼まれれば書く人はいると思うが。


2月24日出題作の解答。







今週の出題。



解ったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

有馬温泉に蕎麦を食べに行く

2024-03-08 00:00:00 | たび
神戸に行くなら有馬温泉に足を延ばして、ダッタンソバを食べに行こうという気分になる。



到着したのはお昼前で、まず「ねねの橋」を渡る。「ねね」とは秀吉の正妻。秀吉が茶々(淀君)に熱を入れ、申し訳としてねねには有馬温泉に別宅を与えていたそうだ。妻の旅行中に愛人といい思いをしようというのだろうが、晩年には淀君とも有馬に行っている。


温泉の前に『ごんそば』に行く。狙いは韃靼蕎麦(ダッタンソバ)。

韃靼とは、なじみがある?ことばなら、タタールのこと。タタールに生えているソバから作ったもの。



この韃靼蕎麦と普通の十割蕎麦を半々で合盛りして食べることにする。

まず、蕎麦の色はやや黄色いのが韃靼そば。食べ方の注を見ると、
1. 蕎麦になにもつけずに食べる
2. 赤穂の塩をつけて食べる
3. 汁につけて食べる

というのが作法のようだ。



蕎麦の後は蕎麦湯。韃靼そばの蕎麦湯はかなりの黄色。これも作法がある。
4. 蕎麦湯になにも入れずに飲む
5. 赤穂の塩を入れて飲む
6. 汁を入れて飲む

つまり同じだ。


次に温泉。公共の湯は、金の湯と銀の湯だが、ちょうど銀の湯は建物の改修中で休み(もともと知っていたが)



金と言っても金の含有量があるわけではなく、湯が黄色から茶色ということで、鉄分が多いとのこと。錆といってもいい。そして入浴客は若い人が多い。先に上がって着替えしていると、大学生グループの一人が青い顔をして出てきて、更衣室で倒れ込む。足が真っ赤で顔が真っ青。足だけ湯に沈めていたのだろう。貧血というか湯当たりというか。

緊急介抱することになる。すぐに床に寝かせてタオルをかけ他の客に従業員への通報を頼む。意識が戻ったようなので、すぐに立ち上がらないように言ってから立ち去る。金の湯の源泉も近くにあった。



有馬温泉街もかなり賑わっている。画像を撮ろうと思ったが、狭い道路で観光客しか映らないのであきらめる。

神戸中華街が賑やかで驚く

2024-03-07 00:00:34 | たび
日本三大中華街は横浜・神戸・長崎と言われる。長崎は江戸時代には中国人街だったので一番古いが、行ってみると賑やかなことはない。中国料理店が限られた場所に多めにあるということ。横浜中華街は規模が大きく常に人があふれているが、震災や空襲や米軍の街になったり、日本の政治史の縮図のような場所だ。

神戸中華街(別名、南京町)はコロナより前の頃に行った時は閑散としていたので期待していなかったが、人出であふれていた。日本はどうなっているのだろう。得体のしれないバブルの風が吹いているのだろうか。天狗の仕業かもしれない。



当日は、朝食のあと9時間も食事をしなかったので、食べ歩きではなく広東料理店で飲茶をいただくことにする。



料理の名前は、まったく記憶に残っていない(小籠包だけは覚えている)ので画像だけになるが、美味しい中華料理というのは、今まで食べたことがない料理をおいしく食べられることだろうか。そういう意味で初めての食感の料理もあったのだが、口に合う料理だった。さすがに広東料理だ。



食後、北京ダックを食べ歩き、というか共同広場で頂く。しっかりしてよく焼けているし、奥の方には皮ではなく肉の部分も含まれていた。よく、皮だけ食べて、肉はどうなるのだろうと疑問を持っていたが、やはり食べていいのだろう。以前は広場にはゴミ箱があったが、撤去され、購入店のゴミ箱に入れるようになっていた。不届き者がいたのだろう。

灘の生一本

2024-03-06 00:00:10 | たび
関西方面に旅行していた。京都、淡路島、神戸。京都のテーマは紫式部。淡路は純然と観光。神戸には何度も行っているが、移動時間の調整的に個別攻略したいところがいくつか。

ということで、今週は神戸。

まず、最初は、灘の酒蔵。阪神住吉駅の周りでは以前、櫻正宗と菊正宗の見学と試飲はしているので今回は『白鶴資料館』へ。本当は『浜福鶴』優先だったが、スケジュール的に休館日だった。



白鶴酒造は昨年が創業280年。もっとも、酒は平安時代から飲まれていて、『紫式部日記』には、関白藤原道長が、孫が産まれたうれしさに、酒を飲み過ぎて酩酊して宮女たちを冗談で笑わせる場面が書かれているのだが、考証すると真冬のできごとで、熱燗で飲んだに違いないと考えられるそうだ。平安時代は酒を鍋で温めて飲んでいたそうだ。私の想像だがおそらく紫式部も道長と杯を重ねたことがあると思う。



白鶴酒造は1743年(吉宗の時代)に材木商人の治兵衛が灘・御影郷で酒造業を起こしたことによる。異業種進出である。そして4年かけて辿り着いたのが「白鶴」。

灘は江戸の酒飲みの酒蔵となり、海に面している灘は大樽積の樽廻船で江戸に送られていた。江戸へ送るのを下りと呼んでいたため、「灘の生一本」のブランドに適さない品質の落ちる酒は「下らない酒」ということで、「くだらない」という単語の語源になったそうだ。



江戸の人たちは大変な酒飲みで、一人当たり毎日二合平均で消費されていたという推計もあるそうだ。



ところで、無料の試飲だが、ビール工場では缶ビール1本、ウイスキーの工場ではシングル1杯というのが相場だが、当資料館では猪口1杯分というところだろうか。残念。たぶん、運転していることを隠して飲む人間がいるからだろうか。あるいは単に。

死神(落語:柳家権太楼演)

2024-03-05 00:00:23 | 落語
古典落語の名作、『死神』。

稼ぎの悪い男が家に帰ると、妻から「稼げないなら出ていけ」と言われ、ついに首を吊ろうと松の木を探していると、貧相な老人に呼び止められる。老人は死神と自称し、「まだ寿命があるのだから医者でもやらないか」と持ち掛ける。

そして、ある呪文と、死を免れない病人とまだ死なない人間の差を教えられる。枕元に死神がいる場合は、もうダメ。足元にいる死神がいる場合は、呪文を唱えると死神がいなくなり助かる。ということで、死神が見えるようにしてくれた上、呪文を教えてもらう。

そして、帰宅してさっそく小さな看板に「いしゃ」と書くと、すぐに大店の番頭が来て、多くの名医から匙を投げられた主人を助けてほしいと哀願される。さっそく初仕事と、病人の元に行けば死神が足元に座っている。しめた、と思い、もったいをつけて呪文を唱えると、死神は退散し、病人は目を覚まし元気になる。

その後も成功が続き、男の手には大金が溜まりだす。ところがその大金を使って、妻を追い出し妾を囲い、関西方面に大名旅行をするようになり、たちまち金はなくなり、妾も去る。

困った男の所に、江戸随一という豪商の番頭が来る、主人が死にかけているが、どうしても家督相続の問題があるので1ヶ月でも延命してほしい、といって二千両を積まれる。渡りに船だ。

ところが、駆け付けてみると、男の枕元に死神が座っていて、病人は虫の息だ。本当に困ると人間の頭脳は煌めくわけで、男は番頭に4人の屈強な男を用意させ病人の周りに配置し、じっと頃合いを待つ。そして半日たち、さすがの死神も疲れてきて、ついウトウトとした瞬間に、合図を出すと4人が布団の四隅をもって瞬時に180度回転させてしまう、と同時に男が呪文を唱えたため目を覚ました死神が慌てて逃げだし、主人は生還し、男は二千両を手にする。

ハイライトはこれから。

二千両を手にした男が帰る道に、現れたのが死神。嫌がる男を洞窟に連れていくと、何本ものロウソクが燃えている。それぞれが人の寿命といい、まもなく燃え尽きるロウソクをみて、「これがあんたのロウソクだ。死に行くものを助けた分、あんたのロウソクが短くなった。まもなく消えるぞ」と言い渡す。泣きながら許しを求めた男に、死神は別のロウソクを渡し、こちらに火を移しなさいとラストチャンスを与える。しかし、消えそうなロウソクが燃え尽きる寸前になっても、手が震えて火が移らない。そして、ついに、「ああ、消える!」ということになり、落語家がバタンと倒れるというのが、正統な『死神』。


ところが、別のサゲもあって、

着火に成功して、単に助かる。
着火には成功しても、うっかり消してしまう。
着火に成功したが、死神が吹き消してしまう。
着火には失敗したが、今度は男が死神になる。

というパターンがあるようだ。

また、最初は「消えた」という予定でも観客の中に本当に消えそうな人がいる場合、生還パターンに変えたりする演者もいるそうだ。

私が聴いたのは互いに姿が見えないオーディオブックによるので、一切容赦なく、「ああ、消えた」という定番コースである。

時代を生きた女たち(植松三十里著)

2024-03-04 00:00:00 | 書評
少し前に朝日新聞と一緒に届けられた「定年時代」というタブロイドに歴史小説家「植松三十里」氏のことが書かれていた。新刊『富山売薬薩摩組』という歴史の裏側を記した書のことを中心に、女史が歴史に埋もれている事実や人物を発掘するのが得意ということが書かれていた。

今まで読んだことはなかったが、いかにも面白そうではないだろうか。そもそも既存の歴史話は知っているし、ネットで見れば一応わかるわけだが、たいてい満足できない。



ということで、何から読もうかと思いついたのが図書館の電子書籍。といってもこの一冊だけが利用可能だった。自分に合う文体なのかとか押し付けがましい書き方は嫌いだなとか電子書籍で確認してから色々と読もうかなといったところ。

確かに、とりあげられた女性は35人。したがって一人ずつのページ数はそう多くなく人生の概略とか活躍した時期に特定して綿密に書かれている。

第一章 チャレンジした女たち
第二章 愛に生きた女たち
第三章 運命を受け入れた女たち
第四章 家族を支えた女たち
第五章 人のために生きた女たち
第六章 日本ゆかりの女たち



35人中20人は知らなかった。明治から昭和前期にかけての女性が主に取り上げられている。不幸を克服して何かを成し遂げた人が多いということがわかる。長谷川町子さんのことでは、やはり漫画の第一作が大量返本されたということが書かれていた。長谷川町子美術館では第一作の返本の話は「なかったこと」にされている。

それで、35人もの女性史を調べているということは、それらを主人公とした歴史小説を書くためなのだろうが最新書『イザベル・バードと侍ボーイ』の主人公のイザベル・バードも2014年の本書の第六章に取り上げられている。10年経ってから完成。まだ、ほとんどが書かれていないことになる。特に「人見絹枝」の本を期待している。

中村屋サロン美術館を拝見

2024-03-03 00:00:19 | 美術館・博物館・工芸品
新宿方面に所用があり、スキマ時間に中村屋サロン美術館に寄った。中村屋ビルの3階。地下にはカレーで有名なレストランがあり、新宿からは地下道でつながっている(地下鉄側の地下道)



所蔵品の中で最も有名なのは「女(荻原守衛作)」だろうか。絶作と言われる。正確には石膏型が完成したところで病没している。最初に鋳造された作品は国立近代美術館が所蔵しており、新たに石膏原型から鋳造されたもの。なお、この石膏原型は重要文化財に指定されている。



体の中にらせん状の動線が感じられるところは、マイヨールの作品とも共通している。

多くの文化人のサロンになっていた中村屋だが、創業者が中村姓だったわけではないそうだ。創業者は相馬愛蔵・黒光夫妻。普通なら相馬屋になるだろう。

実は当初開業したのが本郷の東大の道路を挟んで向かい側にあったパン屋だった。中村屋というパン屋が廃業するということで、居ぬきで開業したのだが、その際、店名をそのままにしていたそうだ。その後1909年に店舗移転。地下鉄の始発駅だった新宿を選んだそうだ。

将棋チェスデザイナーの人物

2024-03-02 00:00:09 | しょうぎ
将棋ペンクラブの機関誌に若島正さんへのインタビュー記事があった。編集者の湯川博士さんが聞き手になり、様々な分野で第一人者になっている若島氏の現在に至るまでの秘密を語られていた。



京都大を理学部(数学)と文学部(英文学)を卒業というところから二刀流が始まったようだ。数学では同級生にはフィールズ賞を獲るような天才がいたそうで、好きな英文学に向かったそうだ。また詰将棋と将棋の関係では、赤旗名人戦で優勝したほどの将棋の実力はあったが、将棋の方が、研究時間を必要とするということで詰将棋の方に傾いていったそうだ。

「詰将棋でも時間はいるでしょう」と聞かれると、びっくりする答えがある。「詰将棋は頭を使わないのですぐにできちゃう」そうだ。

しかし、一番驚いたのは、大学退官後の現在の若島さんの肩書。

将棋チェスデザイナー


駒師とか盤師のような語感だ。


さて2月17日出題作の解答。








今週の出題。



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