紫式部追跡(3)

2024-03-20 00:00:57 | 歴史
前回書いたように紫式部の生家とも言われる藤原為時邸。人生のほとんどをこの家で過ごしている。では、彼女の人生を時系列で並べてみようと思うのだが、生年も没年も諸説ある。

特に生年については彼女の明確なライフイベントの時の年齢がわからないことになり、想像するのが難しいので、本稿では生年についての諸説(970年~978年)の中をとって974年とし、年齢については(±4年)をつけることにする。

986年:父親の藤原為時(949年-1029年)は中流以下の貴族で、花山天皇の教育係としての職を持っていたが、藤原北家の陰謀により986年に花山天皇が強制退位となった後に解職される。紫式部12歳(±4歳)。

10年間の記録はなく、紀貫之の子と結婚していたとする学者もいる。

また、宮中でなんらかの仕事をしていたという有力な説もある。宮中経験がないと源氏物語を書くのは難しいと思えることもある。

996年に為時は越前守(今でいう福井県知事)に任命され、紫式部は同行する。為時が一条天皇に窮状を訴えたので官位を得たとも言われる。また、当初は淡路守を拝命していたが、藤原道長が辞令を曲げ、大国だった越前守に差し替えたと言われる。紫式部への配慮とも言えるし、当時の中国(宋)からの貿易アプローチが越前にあったため漢語の特異な為時と入れ替えたともいわれる。

998年、24歳(±4歳)。赴任地に父を残し、紫式部は京の為時の家に戻り、藤原宣孝と結婚。宣孝は為時と同クラスで同年代の貴族で山城守(つまり京都府知事)。妻は四人と言われる。自宅は変わらず宣孝の通い婚。

999年。大弐三位を出産(紫式部生涯一人の子)

1001年。夫、宣孝が疫病で急死する。

1002年。28歳(±4歳)「源氏物語」を書きはじめる。



1005年。31歳(±4年)一条天皇の中宮である彰子(道長の娘)付の女官となる。もちろん道長の口添えだ。本来なら天皇の妻である中宮は平安宮の中にあるはずだが、この時は内裏での火事のあと、平安宮に隣接した場所に一条院という屋敷を構え、天皇も中宮(皇后)もそこを住居としていた。現在、西陣会館になっている場所と考えられる。その南側、現在は晴明神社になっている場所に安倍晴明(あべのはるあきら)の住居がある。大河ドラマ「光る君へ」では、藤原北家側について悪の限りを尽くして、何人も呪い殺したり、花山天皇追い落としの秘策を伝授しているが、その結果誕生した一条天皇の熱い信頼を受けていた。

地図を見れば、一条院と為時邸は近い。勤務形態はよくわからないが、行き来していたと思われる。執筆をどこで行ったかはわからないが、一条天皇が愛読していたとされ、道長が原稿用紙(紙)を提供していたということから多くは一条院で書いたのではないだろうか。あるいは一条院で下書き、為時邸で清書とか。

1009年。為時は帰京し任官。

1011年。為時(62歳)は越後守として赴任。紫式部の弟が同行するが、越後で病没してしまう。

1014年。紫式部40歳(±4歳)。為時は自ら越後守を辞職する。原因は不明だが1016年に三井寺で出家する。二人の子に先立たれ悲しみによるとして、紫式部の没年とするのが最も早い没年の説だが最長1031年没説もある。つまり978-1014年(36歳)から(970-1031年(61歳)までの幅があることになる。



そして、紫式部の墓というのがあるのが京都市北部にある雲林院の近く。現在は島津製作所の所有地の中だが、見学は可能だ。雲林院は、現在は臨済宗だが平安時代には天台宗の大寺院で源氏物語にも度々登場する。そもそも当時の貴族の息抜きといえば寺社を詣でることで、雲林院はその通り道にあった。



一説だが、冒頭に書いた紫式部の生家問題だが、雲林院の近く(紫野)で生まれたのではないかとも言われる。その後、母の急死により父親の家に引き取られたが、父親の出家により主のなくなった為時邸を手放して、生地である雲林院の近くに引っ越していたのではないだろうか。亡くなった時は父の方が後だったので、天台宗の三井寺のつてで雲林院に葬ったのではないだろうか。その後、雲林院は一時没落して、その後に小規模で復活したため、彼女の墓地が寺の中にはないのではないだろうか。

紫式部と言われるが宮中では藤式部といわれていた。藤の色は紫、雲林院のあたりの地名は紫野。源氏物語に登場するのが紫の上。「紫」の因果関係はよくわからない。