玉の井を歩く

2018-03-01 00:00:25 | たび
東武線東向島駅近くに用があった。この駅は旧名は「玉ノ井」といって、実は「玉の井」という巨大売春窟の入口であった。この駅から都心に通う女性会社員は定期券に駅名が書かれることによって、そこに通う女娼と間違われないように、一駅遠い駅からの定期を買っていたとも言われる。

そしてこの地をこよなく愛して小説にした作家が二人いて、一人は永井荷風。昭和11年に「墨東奇譚」を書き、なんと朝日新聞に売春小説が連載される。もう一人は吉行淳之介。昭和26年に「原色の街」を書き、なんと芥川賞候補になる。(常識が当時と違うといえば、そもそも昔は春を売る方が捕まっていたのに、今や買う方が捕まる時代だ。)

ところで、玉の井にはそれなりに歴史があって、荷風と吉行の通った場所は、まったく別の場所なのだ。

tamanoimap1


まず、玉の井が巨大売春窟になったのは関東大震災が契機だった。浅草のあたりが焼き尽くされ、場所がなくなって川向うに流れてきたわけだ。場所は東武線と水戸街道と北側の大正通り(いろは通り)に囲まれたデルタ地帯である。複雑な路地が入り組んでいて、荷風によればラビリンス(魔窟)だそうだ。銘酒屋(めいしや)と呼ばれていた。

そして、その魔窟も対米戦争の末期に空襲で焼けてしまう。焼け広場は戦後区画整理され道路は直線になり、その手の商売はなくなるのだが、宙に浮いた欲望が舞い降りたのはやはり玉の井だった。大正通りの北側が焼け残っていたため、そこに移転したわけだが、さらに場所が足らなくなり、水戸街道を南下した場所から隅田川に向かって細い路地があり、そこが「鳩の街」と呼ばれるようになる。吉行が描いたのは、この街にある一般住宅のような娼家である。表通りには見えない場所にある。

ところが売春関係者と愛好家にとって悲しいことが起きたのが、昭和32年(1957年)4月1日。売春防止法が施行され、売春窟は一夜にして魔法の様に消滅したことになっている。

tamanoi2


ということで、歴史の残証探しとして、あまり期待もなく、まず戦前の玉の井のデルタ地区を歩くが、やはり事前調査の通り、その手の名残はまったくない。最近、大正(いろは)通り沿いに「玉ノ井カフェ」が開店したとのことだが、週二回の定休日にあたっていた。

歩道もなく歩きにくい大正通りの反対側は戦後に娼家が並んだとされるが、売防法から60年も建ち、ほとんど新しい家に代わっている。一階が住居風で二階が飾り窓になっていて窓二つなら二部屋とかわかるようだが、それっぽい造りの二階建てもあるが、そもそも普通の家だってそういう造りもあるし、仮に娼家を改修して普通の建物に変えたとしても、あえて口外する人もいないだろうから、確信はもてない。ただし、道は迷宮のような構造で無秩序である。

tamanoi3


次に水戸街道を南下して「鳩の街」に到着するが、入り口の店が火事で焼けたばかりだ。よく延焼しなかったものだと思う。本当に僅かに右や左に蛇行する細い路地である。小説によれば、表通りにはなく、裏の方にあったということなのだが、どうも60年の歳月でほとんどが立替えられたようだ。またこの地区では、一般の家のような構造で営業していたようなので、捜索は困難だ。

ということで、実際には何も見つけられなかったということだが、それはそういうことなのだろうと考えるしかない。努力は重ねないと銅メダルにも届かないわけだ。

tamanoi4


ところで、どういうわけか「墨東奇譚」も「原色の街」も文庫本が自宅にあった。悪口かもしれないが永井荷風はそれほどの大家ではないような気がするのだが、文章を読むと、ややまわりくどいような文体で、もしかしたら私の文章は荷風に影響されているのではないかと震撼するところがある。吉行淳之介の文章は粘着質なり。