目白雑録(ひびのあれこれ)金井美恵子著

2005-08-09 22:09:45 | 書評
4a46a6f7.jpg金井美恵子は相当な寡作作家だ。村上春樹よりペースは遅く、かつ、大量に出版されるわけではない。愛読者はかなり固定的だと思うが、何年も間隔があくので、つい忘れてしまう。そして、時折、中型書店で探すと、売れ残った一冊にお目にかかることができる。ああ、手間のかかる作家だ。

実は、彼女の作品はほとんど読んでいる。が、なかなか、他人には勧めかねる部分もある。文章が長い(というか普通には長すぎるというのだろう。ジャパニーズ・ジョイス)。

例えば、2000年5月に出版された、「彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄」という題名からして長い小説は、第1章「どうしてこうなったか」は11ページの間に句読点(まる)は7つしかない。ついでに第2章「何がどうなっているか、1」は11ページで句読点は10 。句読点ごとに息継ぎをするような刹那的な読み方をする向きの方には窒息小説となる。

まあ、それが金井美恵子だ、といえばそうなのだ。が、このエッセイ「目白雑録」は、わりかし一文節が短い。こんな始まりだ。

<頭の中身>
足かけ五年というのは、ある意味ではあっという間に過ぎたといってもいいのだが、それだけの時間をかけて(費やして、という、なんとなく古めかしい言い方を思い出さないわけでもないが)、「群像」に連載していた長編小説が、去年の八月号で終り、今年の一月に「噂の娘」が上梓されて、なんと言うか、しばらく一種の放心状態が続いている。

しかし、次の文節は句読点まで19行。三つ目の文節も19行もある。

実は、この作家の小説は、彼女が高校(高崎女子高校だったか)卒業前後に発表した、「夢の時間」、「愛の生活」、「兎」、「岸辺のない海」などは途方もない広漠としたスケールを感じるのだが、その後、大人になり文壇の片隅に「居心地のいい四畳半」を見つけると、読者の希望とまったく違う、「ありふれた日常性をリアルな目で見る」という方向へどんどん突き進んでいったのだが、それもまた個性として受け止めなければならない。

ファンとして言うと、小説とエッセイとは見分けがつかないというか、永井荷風的なのだろうけど、一転して、その批評で見せる分析力は辛辣であり、もう一度だけでいいから、読者である私のために、切れ味のいい無重力の世界をもう一度書いてほしいなって思いながらも、また金井節に引き込まれてしまう。

ところで、本書の中で、彼女が指摘した図書館と小説家の関係論について考えてみる。

図書館の存在が小説家の生活を脅かしているので、図書の貸し出しを有料化しようという話は聞いたことがあるだろうが、その背後の問題を、彼女は分析している。

まず、実態からいうと、「複本」問題というのがあるそうだ。人気作家(たとえば、渡辺淳一氏のような)の小説は、新刊が出ると、多くの人が予約するため、なかなか書棚に並ばなくなってしまうわけだ。そのため、図書館では、「愛の流刑地」5冊とか、たくさんの新刊を買い入れることにするわけだ。一方、図書館は予算で運営しているのだから、特定の作者の本をたくさん買うことは、売れない作家の本を買わないことになる。つまり、たくさん売れる作家にとっては、どうでもいいような図書館問題のしわよせが、金井美恵子のような売れない作家の図書館向け販売冊数に影響するということらしいのだ。

ただし、一方、彼女が指摘するのは、人口当たりの図書館の数の少なさで、欧州各国の1/10くらいの密度しかないので、図書館数が増えることは、彼女程度の普通の作家にとっては、ベース販売量の確保ということになるので、逆にうれしいことだ、としている。また、現在の図書館数によって、出版時の採算最低ラインが維持されていると言うことらしい。これは、図書館が増えたら書店で本を売らなくてもいい、ということになるのだろうか。

現在の日本の図書館の問題は、「中途半端」ということなのだろうか。頭が弱いので、私にはそこから先の経済学はよく解らない。


そして、苦渋の難航海の結果、やっと読了に近づいたところで、続けてもう一冊出版されていたことを知る。”「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ”。文壇のことだそうだ。還暦が近づき、出版ペースが早くなった。本気になったのか。過激さが戻ってくると大変うれしい。しょせん文壇の中では生きられないだろうから、ボコボコ書いてしまえ。島田雅彦や川上弘美のことなど構ってなくていい。


若い時分に彼女の原稿用紙の上から不条理の世界に次々に逃げ出していった主人公達の続編をずっとずっと待っているのだから・・

頑張れ金井美恵子といったところだ。


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