勝海舟転居歴を調べると・・

2007-03-23 00:00:27 | 歴史
普通、歴史上の人物のことを調べるには、歴史書を読んだり、著作にあたったり、伝記を探したりから入るものだ。生涯の転居歴を調べて、どこに住んでいたかというような、私立探偵の張り込み浮気調査みたいな手法から始めるはずがない。

が、運悪く、勝海舟の居宅跡というのに、最近、何箇所かでめぐり合うことになった。妙な方法だが、転居歴から入っていくと、若干、色々と感じることがあった。そして、その転居先の一部はわからないままだ。これ以上、簡単にはわからないような状態となったので、わかったこと、わからないことを含めて書いてみたい。

まず、生年は1823年。両国駅の近く、現在の両国公園にある男谷家の屋敷である。先日、弊ブログで紹介。現在、公園内に石碑が立つ。なぜ、勝家ではなく、男谷家で生まれたかは、はっきりしないが、父親の勝小吉は男谷家から勝家に入婿だったから実家で産んだ、とされるが、産むのは母親の方なのでちょっと明解にならない。

さらに、8歳になるまで両国近くで2回、転居している。これも理由はよくわからないが、経済的理由なのだろうか。そして、1830年に、遠くではないが、現在の錦糸町駅近くに転居。ここに1846年まで16年間住んでいる。そして、1845年に23歳で2歳年上の女性と結婚。ここまでが、隅田川を渡った先の「川向こう人生」である。

f8b2e7a0.jpgそして、1846年に赤坂田町に転居。田町といっても田町通りではなく、みすじ通りである。赤坂通りからみすじ通りに入ってすぐのところにある。「北の家族」から5軒ほどいった木造の鳥屋、「一鳥」までの間が、勝海舟の5ヶ所目の住居である。狭いような広いような。現在は、雑居ビルが立ち並び、日韓共催といった店揃えである。今まで住んでいれば、勝家は赤坂の帝王になったかもしれない。そして、この家には少なくても10年間は住んでいたのだが、最後の方がはっきりしない。1853年、30歳の時に幕府の要職についたので、ここから彼の出世は始まる。赤坂に引っ越したのは、定説では、彼が師事した蘭学の先生が近くにいたからということになっているが、結婚後1年。これから幕府の要職を狙おうと思ったのではないだろうか。なにしろ川向こうに住んでいると、残業がきつい。

そして、次に登場するのが、同じ赤坂でも氷川神社方面。田町からは徒歩5分。1859年から1868年までである。氷川神社の近くで、現在はソフトタウンというマンションになっていて、一本の木製の碑と解説版が設置されている。後に近くに転居するので、とりあえずここを「氷川邸1」としておく。斜面地のようで、あまりいい場所ではない。この地が幕末、彼がもっとも活躍した時の住居である。つまり、田町からいきなり氷川邸1に移ったのか、あるいは短期間、別の家に住んだのか、よくわからない。公式的には田町の次が氷川邸1である。

f8b2e7a0.jpgそして、ここに住んでいたときに、幕府で大活躍する。まず、移転した1859年11月に、米国派遣が決まる。そして、翌1860年1月に咸臨丸に乗って米国へ行ってしまう。伝承では、妻には「品川に行ってくる」と言ってでかけたそうだが、妻に嘘をつくのはどういった事情だったのだろうか。良く解釈すれば、情報がリークして暗殺されたりすることを気にしたのだろうか。あるいは、単に妻と不仲だったとか、別居中だったとか。

そして4ヶ月後に帰国してから、彼の出世が始まる。主に海軍、国防関係。そして、江戸幕府が崩壊した1968年初めには、陸軍総裁にもなる。要するに、幕府側の全正規軍のボスになる。

そして、先に急げば、西郷隆盛による江戸総攻撃を3月15日に控え、江戸焼き払いという防衛策を胸に秘め、勝は西郷と二回の会談をする。3月13日は高輪。そして翌14日はさらに江戸城に近づいたJR田町駅近くの薩摩屋敷である。

この2回目の会談場所については、実は、特定されていない。現在、碑が立っている場所には薩摩蔵屋敷といって、薩摩藩のプラーベートバース(舟からの荷揚荷積桟橋)があった場所で、倉庫があったのだが、薩摩藩焼討事件の現場のそばであり、少し違和感はある。

しかし、私の大胆な推測だが、仮に、その場所で会談があったとしたなら、勝は江戸城のどこからか城外へ出たあと、舟で会談場所に向ったのではないだろうか。既に両軍がにらみ合い、幕軍内でもハト派、タカ派の抗争が繰り返されていたのだから、降伏条件の交渉に行く勝海舟が安全だったはずはない。海上ルートを予測していた者はいないだろう(現に、今までそんな説を読んだことはない)。それならば、ごく限られた者しか、会談場所を知ることはないし、目撃者もいないはず。現在でも場所をはっきり特定できない理由も説明できる。


歴史家ではない私には、この3月14日、勝が段取りをまとめ、江戸城に帰り、関係者と打ち合わせが終わったあと、家に帰ったかどうかとかつまらないことが気になる。

たぶん家に帰ったのだろう、と思う。思い入れの強い家だ。彼も人間だから深い眠りが必要だっただろう。その後、彼は江戸城引渡しの残務整理をするのだが、この年の10月まで江戸城で勤務している。9月に元号が変わり、家族は9月、本人は10月に静岡に転居(というか仮住まい)。

しかし、まだ榎本武揚や土方歳三が函館で奮闘中にもかかわらず、11月には新政府が勝に出社命令を出す。またも上京。この時にどこに住んだのかよくわからない。既に氷川邸1の住居は閉鎖している。諸説を見ても彼が氷川邸1に住んでいたのは1859年から1868年までとしている。つまり次の家まで4年間の空間がある。

その後、「氷川邸2」になる。1872年(明治5年)、2500坪の土地を得、そこが彼の終の棲家となる。その土地は、後に氷川小学校になるのだが、さらに現在は老人ホーム等になっている。新政府も彼に仕事をいくつか頼むが、要するに閑職。執筆活動を続けるが、こどもに先立たれたりして、1899年、静かな最期を迎える。


彼の政治家としてのクライマックスは、もちろん、1868年3月13・14日の江戸150万人都市の開城交渉なのだが、その交渉がスムーズに行われた背景として、過去に西郷と面識があったことが言われる。3年半前の1864年9月11日に、大坂で「神戸開港問題」で密談している。どちらも神戸開港を推進していたのだが、幕府方の準備が遅れたことについての真意の説明、ということだったそうだ。

実は、西郷と勝の関係だが、この1868年が過ぎ、明治政府が本格稼働を始めた以降は、方や要職、方や閑職ということで身分が離れる。その後、新政府内部の意見の対立で西郷は野に下り、大爆発して西南の役で戦死する。途中、新政府は勝を西郷に対する特使に起用しようとするが、勝は断っている。

それを考えると、勝と西郷は明治になってからは顔を合わしたことがなかったのだろうと思っていたのだが、一度、会ったことがあるという説があるそうだ。場所は、勝の所有していた二つの別荘のうち一つである千束池(大田区)の近くとのことである(もう一箇所は葛飾らしい)。会ったのは、いつなのか。西郷が鹿児島に戻る前の「水杯」の挨拶だったのだろうか。そして、二人は、何を語ったのだろうか。そのうち、千束池に足を運んでみようかと思っている。(その前に「氷川清話」を読めって?)


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