松永久秀は極悪人か

2024-06-03 00:00:00 | 歴史
松永久秀という戦国大名のこと。極悪人といわれる。戦国大名の三悪人といえば、彼と彼が仕えていた三好長慶と斎藤道三ということになっているが、一体、何をやったのかについては検証の必要があるかもしれない。

ということで、小説家ではなく歴史学者による『松永久秀(金松誠著)』を読んでみると、極悪人という説の基となるのは、『常山紀談』という備前池田藩の儒学者が書いた歴史書。この中に信長が家康と対面した時に傍に控えていた松永久秀について、世の人がなし難い三つの事柄を成した男と紹介している。一つは将軍足利義輝を殺害したこと。二つ目は主君の三好義興を殺害したこと。三つめは奈良の大仏殿を焼いたこと、としている。



『常山紀談』は200年も後の書だが、もっと戦国時代に近い1605年に太田牛一(信長公記の著者)による『大こうさまくんきのうち』にも同様の記述がある。

松永久秀は、これも悪名高い三好長慶の下に入り当時の首都圏(京都奈良大阪兵庫)を支配下に入れていたのだが、研究の遅れていた三好長慶について研究資料が増えるにつれ、松永久秀の歴史もよく見えてきたということのようだ。

まず、将軍殺しの件だが、そもそも室町幕府は六代将軍足利義教が恐怖政治を行ったため暗殺されている。その後、権威は地に落ち将軍が京都にいることも少ないような状態だった。足利義輝は三好長慶の庇護化にあったのだが、1564年に三好長慶が亡くなると実権を取り戻そうと動き出したわけだ。長慶が亡くなる一年前には嫡男の義興が城内で謎の死を遂げていて毒殺説があり、久秀主犯説が言われているのだが、まだ親の長慶が存命の時には、着手しないだろうと思われる。

その後、三好家は後継の幼年の(長慶のおい)三好義継と長慶の取り巻き三人(三好三人衆)と久秀という三極化となり、三人衆が中心となり、言うことを聞かない将軍を襲い自害させた。これも主犯とは思えない。

最後の東大寺大仏殿の焼失だが、三人衆+筒井順慶と三好義継+松永久秀という二つのグループの争いが始まり戦場が東大寺で、戦火が飛び火したという説と、義継+久秀軍が東大寺に入って陣営を築いていた時に失火したという説があるようだ。焼き討ちばかりしていたのは信長だ。

ということで、それほど悪人ではなさそうだが、結局、信長・秀吉・家康による天下平定の世になり、来し方の暗黒時代をことさら醜悪化するために悪人代表にされたのだろう。

なお、最後の足利将軍、十五代足利義昭にそそのかされ信長と戦うことになり自害することになった久秀の最期だが、巷間いわれるように、茶釜の名器である平蜘蛛に火薬を詰めて自爆したというのは無理があるそうで、まず、信長に首が届けられていることと、茶釜は打ち壊された形で多羅尾光信が回収し、修理したとされている。壊したのは確かだろうが火薬ではないのではないかと書かれている。

ただ、釜は鉄製なので、爆風を抑え込んだので釜も体も粉々にはならなかったのかもしれない。実験してみれば真偽がわかるだろう。

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