高見順のこと

2006-12-29 00:00:22 | 書評
d8a16339.jpg最近、何ヶ所かの図書館で「高見順コーナー」を見かける。1907年1月30日生まれの作家は、もうすぐ生誕100年である。1965年8月17日に亡くなっているので、58歳。同世代の作家は、もっと長寿であるか、もっと若く自殺したかの両極端が多い。食道癌に冒されていた。

実は、今まで一冊読んだか読んでないかという、縁の遠い作家だった。どうも、情熱的に突き進む作風に馴染めないところがあり、逆に、石川淳は全集まで買って読んでいるのとは正反対。また、太宰治は、一見、情緒的な文体の中に冷静な計算を感じるのだが、高見順の文体は、熱く、重く、直球しか飛んでこない。自分の半端精神では立ち向かえないイメージがあった。

そして、「高見順コーナー」の中に、なぜか、軽いエッセイがあるのを発見したのだが、作者は女優の高見恭子さん。なぜ、高見順のコーナーに高見恭子さんの書物が混じっているのか、よくわからないまま、軟弱にそのエッセイの方を借りてきて、読んでみると、驚いたのは、恭子さんは高見順の娘、と書かれている。年齢的に微かな意外感を感じる。そして、その本を読後、返却する際に、展示コーナーの年譜を追うと、驚く事実が多数、書かれていた。

帰宅後、あれこれと調べたことも含め、高見順の秘密を薄くなぞってみる。

まず、出生から。高見順の本名は高間芳雄。福井県の三国の生まれで、生家は保存されているのだが、昨年、福井から三国鉄道で辿り着いた古風な料亭から僅か数百メートルの場所。それを知っていればと、少し悔しい。そして、本名が高間だから両親も高間かと言えばそうではないのだ。母親は高間姓なのだが、父親は異なる。阪本之助という。福井県知事。福井県知事は三国ではなく、本来、福井市にいるはず。詳しい事情はあまり調べたくないが、要は非嫡出子ということ。そして、一歳で上京。才高く、一高を経て、東京帝国大学英文科に進む。しかし、この父子は学費や養育費こそ父が負担していたものの、一生顔を合わせたことがなかったらしい。そして、父が子を認知したのも芳雄が20代になってからとのこと。(この阪本知事の甥に永井荷風がいて、順と従兄弟関係であるのだが、作風は激しく異なる。)

その後、彼はプロレタリア文学を書き始めるのだが、1932年に治安維持法違反で逮捕され、転向。戦後、このトラウマを引き摺る。1935年に「故旧忘れ得べし」で第一回芥川賞候補となり、職業作家の道が開ける、とされている。

この部分を、芥川賞の歴史の中で調べてみると、第一回(1935年上期)の受賞作は石川達三である。では第二回はといえば、該当なしとなっているのだが、この第二回というのは1935年下期が対象なのだが、ちょうど選考時期が226事件(1936年2月26日勃発)と重なり、選考会そのものが開催できなかった、ということだそうだ。歴史に「もし」は禁物だが、彼が芥川賞を受賞していたら、その後、色々と異なる展開になっただろうとは推測の世界である。

そして、作品はほとんど読んでいないので、論及することはふさわしくないため、ここには書かない。

d8a16339.jpg次に、高見恭子さんの方の話だが、年が離れているのも無理もない話があった。彼女の生まれは1959年1月5日。高見順52歳の時の子になる。彼女の父親が高間だから高間姓かと言えばそうではないのだ。小野寺姓である。母は高見順の愛人で、恭子さんは千駄ヶ谷の生まれだそうだ。そして、6歳の時、高間芳雄の養女として高間籍になっている。養女となった日は1965年8月4日。その13日後に高見順は亡くなる。

その後、高間恭子は高見恭子を名乗り、タレント活動の傍らエッセイを書き始め、1回の離婚のあと、1994年に2歳年下の馳浩と結婚。馳浩は結婚した当時はプロレスラーであったが、翌年、自民党から国会議員に当選する。選挙区は石川県である。馳は富山県の生まれであるのだが、少しばかり福井県に引き寄せられたのが、なにかの引力によるのだろうか。


ところで、今年、作家吉村昭が亡くなる時に、自らのどのチューブを引き抜いて、他界したことが、死後、報道されたのだが、高見順の最期にもドラマがあったそうだ。

山田風太郎著である奇書「人間臨終図鑑」は、こう記す。


(秋子夫人の観察)8月17日午後2時半ごろ、龍沢寺の中川宗淵師が病室に入ってきた。
彼は高見の一高時代の同級生であった。彼は巻紙に書いた決別の辞を病人の枕頭におき、しばらく高見の顔をみつめていたが、やがて

「こんなものは取りましょう」

と酸素吸入のパイプをはずしてしまった。あっけにとられた医師に会釈して、宗淵師は読経をはじめた。それは2時間も続いた。


秋子夫人は記す。
「朗々とした身にしみわたるお声だった。最後に 「渇!」と大きな声で叫ばれた時、高見は私のほうをみて、息を引き取ったのです。
閉じられた双のまぶたからは、はらはらと涙があふれ両方の痩せた頬に流れ落ちました。5時32分のことでした。」
(『人間臨終図鑑(II)』 徳間文庫 p.81 山田風太郎)


文中の秋子夫人というのは、高見順の2番目の夫人のことと思われ、長女を産んでいたはずである。2週間前に入籍した恭子さんや小野寺家との関係がどうであったのか・・・。深い詮索はやめておく。

そして、現代であれば、酸素吸入のパイプを引き抜いて読経を始めれば、1時間後には最寄警察署の拘置所に入っているのは間違いないことだろう。  


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