伝説のディベロッパー吉田勘兵衛の遺産

2018-06-11 00:00:39 | 歴史
横浜は、ペリーのごり押しで日米和親条約が結ばれた地である。場所は神奈川県庁よりも山下公園寄りの場所で、現在は横浜開港資料館が建っている。その際、急遽砂浜を伸ばして、体裁を整えたとされるのだが、その砂浜から内陸部も江戸時代の初めは入り江だった。

現在の桜木町と関内の間に川がある。また石川町と山手の間(元町の裏手)にも川がある。この間の土地は海だったわけだ。

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そこを干拓したのが吉田勘兵衛という干拓業者で、1660年の頃だ。実は若いころは木材商人で江戸で仕事をしていた。幕府御用達ということで、いわゆる公共工事を請け負っていたのだが、公共工事の常として、工事費を前決めしてから材木の調達をするので、黒字だったり赤字だったりとけいえいが安定しなかった。

そのため、木材を売るだけではなく、土地を作るというところから始めたわけだ。ところが、既に江戸の町はおおむね完成していて新規事業が難しく、全国調査の旅に出たものの、事業に合う場所が見つからない。むなしく江戸に戻る直前に神奈川宿から一里ほど盲腸のような脇道になる海岸を南下して、この大きく凹型にくぼんだ砂浜の入り江を見つけたわけだ。

そして、共同出資者を募り水田の開発を行った。ちょうど入り江の中央に河川が流れ込んでいて、この川の水を二手に分けるため、中洲状の土地を作った。それから数十年の間に共同出資から権利の譲渡を受け、結局一人でこの地の貸元になったということ。

現在は、同じ場所に吉田興産のビルが建ち、不動産業を行っている。

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同様に藩ぐるみで幕府に内緒で干拓していたのが岡山の池田藩。要するに幕府から言い渡された石高はあるものの、それより沢山の米がとれれば大坂の悪徳業者に横流しできるわけだ。そのためには農地を増やそうということになる。

岡山市の南側にある玉野とか、どうみても元々は島だったはずだが、海を閉じこめて干拓してしまった。そこでは稲作を行うために川の水を運河や水路でつなぐことになる。さらに土地改良のため干した鰊の身が使われたそうだ。北海道の鰊が日本海を回り、蛸で有名な下津井港に荷揚げされていた。

池田藩は既存の農地にも川の水を潤沢に供給するために、街並みの中に水路をたくさん巡らしている。そのために現在では大きく二つの大問題が起きている。一つは運河への転落事故である。毎年10人程度がそれで亡くなっている。しかも、落下防止の柵も川の片側に設置されているだけ。両側に柵を作ると、落水した者が川から上がれなくなってしまうからということになっている。

もうひとつの大問題は公共インフラへの影響。間に運河があるため、地中に管を通すことができない。このため、ガス配管も難しいし、水洗トイレも設置が難しい。

本文に書きそびれたが、池田藩は密かに蓄財を進めたようだが、吉田勘兵衛は干拓した土地を検地している。

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