絵画館の一枚のこと

2018-06-10 00:00:21 | 美術館・博物館・工芸品
先週、書いたのだが、神宮外苑にある絵画館は明治天皇のアルバムのような造りになっている。明治時代にはまだ大型写真が日用化していなかったこともあり、明治天皇を中心に置いた明治時代史を記録するため、正方形に近いキャンバスに絵画を描いて記録するということが行われた。

その65番目の絵画には「振天府」というタイトルが付けられている。この絵画を明治天皇に奉納したのが公爵徳川家達。最後の征夷大将軍の徳川慶喜の子で一応16代当主ということになっている。そして描いたのは川村清雄という洋画家で、勝海舟と親しかった。

徳川や勝は天皇の敵なのだが、どうして敵のはずの明治天皇に奉納したのか、よくわからない。なにしろ振天府に関してはわからないことばかりなのだ。

実は、ネットにある振天府の絵画を張り付けることは可能なのだが、この振天府を調べている人は一定数いるようで、なかにはかなり神経質な方もいらっしゃるようで、「盗用疑惑」をかけられそうなのでやめるが、どうも日清戦争の相手側の武器や、要人のすわる椅子などが描かれていた。

簡単に言うと、戦争の結果、清国から戦利品として搬出したものらしい。それらの品々は、現在では戦後処理として当該国に全部返還したことになっている。

そして、そういう戦利品の記念館は実は皇居(吹上御殿)に隣接した5つの木造倉庫があてられていた。5つということは日清戦争だけではないのである。

5つの総称は御府(ぎょふ)と呼ばれている。

振天府(日清戦争)、懐遠府(義和団の変)、建安府(日露戦争)、惇明府(第一次世界大戦)、顕忠府(日中戦争)。

実は、疑問は何も解決できない。義和団の変というのは戦争だったのだろうか。第一次大戦の戦勝品というのは中国の青島のドイツ領地から持ってきたのだろうか。戦後返したということなのだろうか。日中戦争は、少なくとも日本は勝ったわけではない。

御府に収められたものは、戦争で亡くなった兵士の名簿、敵国のお宝、敵国の武器ということで、乏しい情報から判断すると、敵の武器(大砲等)は第二次大戦後1年以内に、米軍に引き渡されている。融解されたとされるが定かではない。

お宝類はどういうことになったのか証拠については(私は)認識できていない。

これらの関係の話というのは、実は、あまり調べられていない。おそらく、日本の右派のみならず左派にしても、終戦直後の泥沼状態を調べたところで、周辺諸国の大騒ぎが予想され、さらに解決困難問題が増えるだけということが直感されるからなのだろう。もううんざりということだろう。

ということで、たぶん国民的総意のもと存在事実自体が闇に葬られていくのだろうと思うのだが、もう少しは知りたいという気持ちもある。


冷静に考えてみると、戦争に負けるとこうなるということなのだろう。大英博物館やプラド美術館なんて他国のお宝を堂々と飾っているし、要するにタダで持ってこないでいくばくかの対価を払わなかったから手放すことになったのだろう。

オアフ島のワイキキ海岸の西端には米国陸軍記念館があって、第二次大戦中の米軍と日本軍の戦車が並べてあり、大きな戦車の方が強いということを、強調しているのだが、日米戦車戦とかどこかであったのだろうか。あれも戦利品展示場とも考えられる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿