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ところが、大坂城の北側には淀川が流れていて、その橋は豊臣側が背水の陣を立てるため、自ら焼き落としていた。わずかな舟に乗れなかった者は川を渡らねばならないが、簡単ではない。こどもを連れて逃げるものもいる。夫の首なし死体にすがるもの。そしてタイタニック状態で舟も転覆する。
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川を渡っても追剥がまっていて身ぐるみはがれるし、レイプ寸前の女性も描かれる。この屏風、5000余人が描かれているそうだが、京都まで逃げられたのは、ほんの一部だろう。さらに、逃げたところで、何になるのだろう。無一文だ。
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実は、世界史をみても、これだけ悲惨な戦争は数少ない。だいたい、一般市民は先に避難していて、軍隊だけが衝突する。コンスタンチノープル陥落の時も市民は巻き込まれなかった。
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さて、読売新聞で大坂城の話題が報じられていた。
「夏の陣」で焼失、大坂城本丸の金箔瓦が出土
大阪城から出土した金箔の残る巴文の軒丸瓦と鯱の破片 大阪市中央区、大坂城の天守閣北側から、徳川氏が豊臣氏を滅ぼした「大坂夏の陣」(1615年)で焼けた土の層や、本丸に使われた巴(ともえ)文入りの金箔軒丸(きんぱくのきまる)瓦(直径約20センチ)、鯱(しゃちほこ)の破片など数十点が、市文化財協会と市教委の調査で出土し、10日公開された。
本丸付近の調査例は少なく、大坂城中心部の焼亡と、その後の城跡の整地がどのように進んだかを示す貴重な資料だという。
木の根などでずれの生じた天守閣北側の多聞櫓(やぐら)につながる石段の復旧工事に伴い、2月初めから発掘。瓦片などは深さ2メートルの部分から見つかり、夏の陣後に整地されていた。また、石段は徳川時代に大坂城が建て直された際に整備され、これまで9段とされてきたが、11段だったことが新たに分かった。
(2007年3月10日14時33分 読売新聞)
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