一粒のタネ(3)坂田武雄物語

2011-03-01 00:00:21 | 坂田武雄物語
農業学校を卒業した武雄は、普通のコースで就職しようという気にはとてもなれなかったようだ。稲作を中心とした在来農業を始めようなどという気にはなれなかったのだろう。目指すは「種の起源」だったわけだ。そして、農商務省の海外実業実習生募集に応募する。一山当てたかったわけだ。

実際には、狭き門であり彼以外の受験した同級生も全員落選。さらに農業部門では、武雄一人だけが選抜され、ハワイ経由シアトル行きの安芸丸に乗船することになった。同期生には、ヤナセの創業者である梁瀬金太郎、キューピーマヨネーズの中島董一郎、第一銀行の頭取になった酒井杏之助がいる。

そして、彼が米国に渡ったのには、もう一つの理由があった。高額の給料が支払われたからだ。月給が35ドル(70円)である。さらに、現地で働けば、その分は自分のものだったわけだ。ダブルインカム制である。

ということで、西海岸で職を探したのだが、なぜか不景気のせいもあり就職先が見つからない。武雄にしてみれば、日本からの給料があるのだから、勤め先では無給でもいいので、就職回りの時に、「タダでいいから」と売り込んだのだが、米国では日本人経営者の場合も、「タダでは雇えない」ということになる。日米の勤労に対する価値観の差に直面したわけだ。

そして西海岸での求職活動一ヶ月の後、あきらめて遠く東海岸ニューヨークへ流れる。結局、最終的にニュージャージー州のヘンリー・A・ドリアー(Henri.A.Dreer)という会社に落ち着く。膨大な土地を所有する苗木の会社である。そこで、彼は土を一輪車で運ぶなどの単純肉体労働から人生最初のサラリーマン生活を始めることになる。運命の歯車が回り出していることに、まだ誰も気づいていなかった。

すべての機具や作業工程が巨体を誇る米国人サイズの中で、彼は肉体の疲労に耐え、その時「日本」を見つめ直したと言っている。一方、休日制度のはっきりしない日本と異なり、ドリアー社は毎週日曜が休みである。休日にすることもない彼は、ひたすら図書館に通い、農業の勉強をすると同時にギリシア神話を読み耽ったという。(ギリシア神話の英語版を解説なしで楽しむというのは、並はずれた語学力が必要と思う。)

そして、この東洋のリトルボーイにとって最初の幸運は、社長のアイスレーが彼を贔屓にしたことである。ドイツ系の米国人だったが、苗木や園芸の方面では、世界的に有名な人物だった。経営手腕も、学識も、人格も素晴らしく、そのすべてを武雄は尊敬することとなる。

武雄の非凡なところは、苗木の知識について学ぶ一方で、日本に帰って事業を行うためには、「自分の会社を設立」しなければならないということを知ったところだろう。そして仕事が終わったあと、簿記の学校に通うことになる。しかし、政府からの派遣期間の3年はあっという間に終わってしまうのである。

そして、研修終了間際になり、アイスレー社長から社長室に呼ばれるわけだ。

「イギリスへ行ってみないか。」(もちろん英語で)

アイスレーは坂田武雄を日本の一流苗木商にするために、日本と気候の異なり過ぎる米国だけではなく、比較的似通っている英国の実情を学ばせたかったわけだ。そのためのスチュワートロー社への紹介状を書いてもらうことになる。要するに彼の紹介状が水戸の印籠になったわけだ。

さらに武雄は甘え、英国6カ月の次に、球根をはじめ欧州の園芸取引の中心地であるオランダに3ヶ月滞在できるように手配をしてもらう。帰国前の最後の仕上げとしてフィラデルフィアの小さな種子店で3ヶ月勤める。

実は、最後に種子店で働くことになった時には将来のことなど何も予測できていなかったのだが、日本で苗木商を営もうと思っていた彼の運命にとって、この最後の経験の重要さが痛いほどわかる時がくるのである。


そして、四年間の欧米生活を終え、両親の住む日本に戻ることになる。大正2年(1913年)。時に、25歳である。

続く


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