一粒のタネ(2)坂田武雄物語

2011-02-28 00:00:48 | 坂田武雄物語
坂田家は、江戸時代、武士階級だった。久留米藩士である。久留米藩は学問に力を入れていた藩であり、多くの藩士が明治維新の後、教職についたそうである。武雄の父である坂田伝蔵も、同藩の藩士の娘である母のムラを伴い、上京して文部省に勤務していたそうだ。

武雄が生まれたのは、東京の四谷荒木町である。明治21年。八人兄弟の長男である。父親の32歳の時の子である、父伝蔵は、1856年、ちょうど黒船来寇で騒然としている幕末生まれである。

そして、明治26年。父親が山形県米沢の米沢尋常中学校長を拝命することになる。引越しである。翌年、武雄は地元の小学校に上がる。(まったくの私事だが、その40年以上後に私の祖父がこの中学で一介の教師として教えることになるのだが、年齢的なことを考えても、中央官庁から校長で派遣されるというのは、かなりのエリートだったのだろう)

その後、父は、体が米沢の気候に合わず、明治30年に滋賀県の彦根の中学校長に転勤する。

さらに、伝蔵は彦根の中学校長職を辞し、東京に戻り、高等師範学校舎監の職を得る。翌年、武雄は半蔵門にある日本中学(日本学園)に新入学する。ちょうど1900年(明治33年)。この頃について、武雄の述懐によれば、父親は動植物が大好きで、自宅の庭や池で動植物を飼ったり植えたりしていたそうだ。彼の原点は、庭付き戸建住宅だったようだ。


5年後の明治38年。中学を卒業したが、最初の挫折を味わうことになる。高校入試失敗である。当時の最高峰である第一高等学校(一高)を受験し、見事に失敗する。どうも、それほどの学業ではなかったようだ。ともかく、一高に入っていれば、その後の人生はすべて異なる路線になるわけだ。中学の時は勉強よりも水滸伝を読み耽っていたそうで、そこに受験失敗の原因があるのだろう。

さらに読書家だった武雄が浪人中にめぐり合った運命の書がある。「種の起源(ダーウィン著)」である。武雄が何を読み取ったのかはよくわからないが、後の彼の仕事が旧来の日本型の種苗業者と異質であったのは、まさに植物の種の改良であったのは絶対的な事実なのである。

そして、改めて武雄が入学したのは、東京帝国大学農学部実科である。現在の東京農工大学。どうも、1年の浪人を取り戻すべく3年間で卒業という就学期間の短い学校を選んだようだ。が、思いもかけず、大学生活は苦労したようだ。自宅の庭で草花を育てる環境とはまったく異なり、学生の大半は地方出身者で、要するに百姓仕事を教える学校だったわけだ。そんな時、愛読していたのは「若きヴェルテルの悩み(ゲーテ)」。後年、いつも仕事に悩み、プロレスを見るとき以外、ほとんど笑うことがなかったと言われる遠因だろうか。

そして、学校を卒業するのが、21歳である。自らの運命を賭ける決断の時が来る。

続く


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