一粒のタネ(6)坂田武雄物語

2011-03-04 00:00:14 | 坂田武雄物語
ところで、坂田武雄は、海外では「ペチュニアのサカタ」と呼ばれていたそうだ。武雄が目を付けたのが、八重咲きのペチュニアである。この種は以前からあったようだが、八重咲きと一重咲きの出現が半々の確率だったそうだ。それを100%八重咲き種に改良しようと、3年間の研究で完成させたのだ。



ところが、この種子については、当初、米国では、まったく話題にならなかったそうだ。要するに、日本人にできるわけがないだろう、と思われていたからだ。そのため、坂田商会のオール・ダブル・ペチュニアを世界で初めて評価したのは、ドイツのカタログ通販会社ベナリー社だった。

かくして、ドイツ経由で、米国で認められてから、坂田武雄の事業は、再び軌道に戻る。今度は、花の種子である。茅ヶ崎の農地を借り受け、毎年改良種を売りだしていたわけだ。



そんな時に、彼は見合い結婚をすることになる。取引先の銀行の紹介である。大正15年に挙式。武雄39歳。妻美代は17歳も年下だった。彼は、何よりも妻を大切にしたのだったが、何の運命か美代は、武雄に先立つこと2年。昭和57年に亡くなっている。

ところが、順調に業績を伸ばしていた坂田商会の事業も、昭和11年になり、ピークを打ち、次第に業績にかげりを帯びるようになったのである。

昭和11年の2・26事件から翌年の日中事変と日本が戦争の泥沼に進むにつれ、世間に物資が不足し始める。特に主食である米の供給に不足が目立ち始めてくる。農業は米麦中心となり、花などやめて、芋を作れ、ということになったわけだ。

窮地に立った武雄は、中国大陸に活路を求めることになる。対日禁輸を始めた米国に輸出するため、上海にあらたな土地を仕込み、そこを本拠地にするつもりだったのだ。一方で武雄は、10回以上も渡米していて、彼我の実力差を考えれば開戦することはないだろうと考えていたそうだ。


昭和16年12月8日。運命の開戦の日、武雄は上海にいた。結果、上海支店を含む中国事業をすべて清算し、彼は日本に戻るわけだ。親米派の彼の心中、いかがだっただろうか。

昭和17年には、1月に農産種苗統制要綱が発表され、企業合同が余儀なく行われ、坂田商会を中心として、4社が統合され、坂田種苗となる。5月には、反戦論者として官憲に逮捕される(数日で釈放)。そして、昭和20年6月。思うような経営もできなくなり、失意の彼は、社長から自ら降りることになる。

経営を投げ出したかのごとく思えるだろうが、社長を辞めた彼が、一人で始めたことがあった。自分の開発した数多くの種類の種子を、いくつもの小袋に詰め替え、それを銀行の貸金庫、会社の倉庫、自宅、疎開先の山中湖の別荘に分散して保管することにしたわけだ。

なんとか、種子だけでも戦争による被災を乗り越えさせたかったのだ

続く


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