下流志向(内田樹著)

2009-10-01 06:30:37 | 書評
内田樹は社会科学者というのだろうか。あるいは社会文化学者、あるいは哲学者、あるいは風説家?



微妙にそれらのカテゴリーから少しずつずれた場所にいて、面倒な論争に巻き込まれないようにしているのだろう。本書は、『下流志向』と題名がついていて、副題が「学ばない子どもたち、働かない若者たち」となっているのだが、単にニート問題を取り上げただけの書ではない。現在の学校問題にとどまらず社会現象全体を書いている。

今読むと、そういう閉塞状態で民主党政権に変わったというのは、案外、フランス革命とかソ連崩壊とかそういう思想的な変化なのかもしれないと、少し思った。

まず、学校の現場で起こっていることというのが、「学力低下」だそうだ。実は、東大合格者と開成中学入学者とかの数字で見ても、あまり見えないそうだ。特定の傾向なく、ただ単に学力が落ちていくのは何か。

内田氏は、「偏差値」のせいであると断言する。偏差値とは、同級生の中で相対的にどの位置にいるかを示す指数であるにすぎず、絶対性がない数字である。生徒やその親にすれば、自分の成績が上がって、よりよい針路に進むためには、他人の学力が落ちることが、もっとも好ましいのである。嫌いな勉強をしないでも成果があがるわけだ。そして、それが若者社会に蔓延している。頭の良い子が、携帯にはまって、勉強できなければいい。ゲーム機が売れればそれでいい。同級生よりも少しでも偏差値が上なら、それ以上勉強することはない、というわけだ。その競争の中には、上級生との比較はないし、まして外国のこどもとの比較もない。

次に、「間違った成果報酬主義」があるそうだ。学習をビジネスのように考えてしまう。
例えば、勉強時間に応じて、テストの点は上昇するかどうか考える。仮に1時間勉強して5点よくなり、2時間勉強してあと3点よくなり、3時間勉強してさらに2点よくなって、合計10点改善されると考えた場合、最初の1時間より2時間目、3時間目の方が改善率が悪くなると考え、1時間だけ勉強する。経済学の限界効用理論みたいな話だ。

こどものくせに、そんなことを考えるようになるのは、コンビニがいけないそうだ。コンビニのレジの前では、人間の価値は、単に持っている金額だけで判断される。仮に総理大臣でも、「つけ」ではパン1個でも買えない。こどもでも、買い物をすれば、大人とまったく同じ「お客様」であり、「いらっしゃいませ」と言ってもらえる。商品を買うという行為は、原始時代から「おカネと対等の商品を交換する」ということであり、少なくとも学校の勉強よりは易しい理由で、『経済的価値』を考えるわけだ。(中学2年生の男子が中学三年生の女子に2万円を渡して買春したりする事件は、そういうことなのだろう)

そして、教育とその効果というのは、まさに計測が困難で、時間と効用という関係では、まったく不効率なのは自明である。勉強が嫌いでゲームが好きな子にとっては、効果(リターン)不明で苦痛の伴う学習よりも、すくなくても学習よりは快感の伴うゲームでもしていたほうが有効な時間であるということ。


次に、ニート論だが、ここで「下流志向」の話になる。ぐずぐずしているうちに、不運の連続攻撃を受けて、下流社会に迷い込むことはいつの時代でもあるのだろうが、本書で書かれているのは、「自ら、下流方向へまっしぐら」という若者が増殖中ということについて。

一つは、「弱者への憧れ」があると指摘。社会的強者よりも社会的な弱者の方が、かっこいいし生きがいがあるように勘違いしているそうだ。

さらに、「自己決定」。自分の人生を自分で決める、という勘違いから、どんどん会社を変わって、ついにはどこにも行けなくなる。もちろん、自分で決める人生では、なかなか上昇気流に乗れないもので、下流方向に流れていくのが常である。

次に、例の経済学的費用対効果。結局、親の経済力に頼って、自宅に引きこもっているというのが、若者個人にとっては、もっとも効率的な生き方ということになる。一時、ホリエモンがニートたちの人気だったのだが、努力しないでおカネを稼いだ人ということだったようだ(まだ彼の一生の勘定総額は不明)。

そして、日本の社会としての最大の不安は、大量にいるニートや隠れニートたちは、親が健在というのが大前提であり、数十年後に親たちがいなくなったとき、このままでは街に浮浪者があふれるということになるのではないだろうか、と心配されている。

もちろん、内田先生は政治家でもないし、警察関係者でもないので、日本の未来がどうなろうとも、知ったことではないわけである。


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