「白魚橋」って、Do you know?

2005-07-22 19:55:20 | 市民A
7b329413.jpg(画像をクリックして中央の地名を確認できます)

港区の教養講座で「江戸学」を学んでいるのだが、「都市農村関係史研究所」の渡辺善次郎先生の話を聴く。「江戸は循環型社会だった」。

「循環型」というので、臭い話(し尿の肥料利用)を聴くのかな?と思っていたのだが、それはちょっとだけであった。

まず、驚いたのは、講義のマクラが「ワンガリ・マータイ」さんの「MOTTA-I-NAI」からだった。またもだ。この「しょーと・しょーと・えっせい」では、彼女のことは、ノーベル平和賞受賞の時からおさえていて、彼女が日本でこの「魔法のことば」を発見する前から注目しているのだが、ついに新橋の港区生涯学習センター3階第五教室にまで「モッタイナイ」がいきわたることになった。まさか、彼女も日本発の言葉が資源浪費国の米・中ではなく、出発点の日本国内で盛り上がるなんて予想もしていなかっただろう。ブーメランか?この建物自体が児童のいなくなった区立桜田小学校のリユース品であるところもニクイ。

で、講義時間の大部分は、江戸が循環都市になった事情というような、ちょっと深層的な経緯を欧州の都市との比較で論考する。オールジャパン向きの検定教科書とは中身が違って、東京人から見た江戸の評価といったところが中心的観点だ。そうすると、明治以来の公式的歴史観とはかなり違う風景が見えてくる。つまり、東京は近代日本の首都でありながら、近代日本と敵対する江戸文化の中心地でもあるわけだ。

江戸と東京の時間的境界は「明治維新」であるのだが、明治時代の近代人から見て、江戸の歴史は「忘れ去りたい風景」だったらしい。国策としての洋風化である。しかし、江戸末期から明治初年にかけて来日した外人の目には、江戸や長崎の町は、欧州と比べてかなり先進的で豊かな町のように見えていたらしい。欧州と較べると、貧富の差が少なく、大名から農民まで同一の法令が適用になり、資源大国で農地の生産性が高い。さらに教育水準が高い。そして、外人の目からみると、「税金が驚くほど安い」ということである。

それに対して、日本人が見た日本は、植民地がない、家が木造である、蒸気船や鉄道が無いといったネガティブコンプレックスの固まりだった、ということである。(私見では、つい20年ほど前まで、このコンプレックスはつながっていたのだろうと思っている。近日中、別稿)


要するに、検定教科書による歴史では、封建制の武士社会を平民である薩長が倒して、近代国家として、産業革命を進めて、重商主義に進んでいくと書いてあるのだが、江戸側から見ると、自給自足で自己完結型社会を、外圧を利用した薩長が拡大再生産型経済を持ち込んで乱開発を進めた結果、国内だけで収まりがつかず、大陸進出に向かった、ということになるのかもしれない。

確かに、開国に踏み切ったのは、大老井伊直弼であり、薩長は英仏と一戦交えてボコボコにされていたりする。結局、イデオロギーや経済体制の改革を目指していたわけではなく、維新も成行任せになっていたのかもしれない。やはり歴史を正悪二元論でとらえるのには慎重でなければならない。


もう一つの重要点だが、江戸時代270年間のうち、享保年間までの前半は、各藩が藩内の財政改善のため、積極的な新田開発、産業開発に突き進んでいったのだが、そのうち、山が荒れ果て、「諸国山川掟」という開発禁止令が幕府から発せられることになる。また、江戸初期には、金、銀、銅、鉄の産出量は世界最高であったらしく、それらの工業資産を、人口3,000万人を保持しながら循環して利用していたということなのだ。つまり、江戸後半は農業生産力の増大がないのに商業資本が集積していき、物資不足を補うために、鎖国下では必然的に循環型社会に到達したということだろう。

そして、江戸とパリ、ロンドンとの最大の違いは、水利だそうだ。ロンドンではテムズ川は常に臭気を発生させ、「Great Stink事件」では、テムズから突然ひどい臭気が発生し、ロンドン中の市民が逃げ出した記録があるらしい。伝染病の原因は臭気だと思われていたそうだ。パリはセーヌ川の水を飲用に使っていたと同時に、排水もセーヌに流していたそうだ。

また、あちこちに銭湯があって、毎日、風呂に入るのは日本人だけだったそうだ。現在でも欧州には、バスなしシャワー付のホテルがあるが、日本でバスのないホテルを作れば、間違いなく、1週間でつぶれる。その事情はカップルズホテルでもなおさらだろう。


そして、ここから先は自主学習の世界だが、江戸では舟遊びが盛んで、白魚を釣っていたとの話がある。寿司屋で白魚を5~6匹まとめて軍艦巻きにしてもらうと、あまりの美味ゆえ、よだれだけでなく目からも涙がこぼれてしまうような透明な魚だ。非常にきれいな海でしか生息できないはずなのだが、江戸前(江戸湾とは言わず、「内海」という。)で獲っていたらしい、という情報を頭の片隅において、「江戸-東京重ね地図CD-ROM」を動かしていると、偶然にも、こんな地名を見つけた。

白魚橋
なんと、海ではなく、市中の堀切にかかる橋に「しらうお」の名がついている。海から上っていたのだ。

しかし、現在の東京で、CD-ROMなしに、この「白魚橋」の所在を突き止めることは、まず、困難と考えられるのだ。なぜかといえば、橋どころの話ではなく、堀切自体もすっかり埋め立てられてしまっているからなのだ。そして、その橋があった場所には、現在では消防署が存在するのだ。白魚橋消防署ならぬ京橋消防署である。


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