大根河岸市場とは

2020-01-05 00:00:27 | おさんぽ
東京駅から八重洲側に直進すると京橋交差点がある。その近くに大きな石碑がある。こう書かれている。

岸河根大橋京
跡場市物青


アラビア語のように右から左に読む。日本では戦後、いつの頃か横書きは左から右に読むようになった。ただし縦書きは、行が変わると右から左に進み、2ページ目は左から右へページを開く。不思議な国民だ。

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で、この碑文だが、黄色の文字できわめて読みにくい。画像を撮影してから色調転換して読むと、江戸=東京の市場の歴史が書かれている。

まず、寛文(1661年~1673年)の初めの頃、今の数寄屋橋のあたりに数人が寄り集まって、野菜類の市を開いたそうだ。おそらく町人と武家の両方が便利な場所だったのではないだろうか。宝くじ売り場のあたりかな。その場所でかなりの規模に拡大したようだ。

ところが、江戸は火事が多い。幾度かの大火のあと、場所を移転しようということになる。選ばれた場所は、東海道の起点に近く交通量が多く、また水運のある場所として、京橋川北岸の紺屋町と定まり、問屋37、仲買17が集まる。これが人呼んで「大根河岸市場」だ。

そして、経つこと200年、明治10年に近隣の小規模市場も集まることにより政府公認の大市場となった。関東大震災の後にも復興するも、昭和10年に中央市場法の実施にあたり、国家の要請によりやむなく築地市場に移設されることになり、300年の歴史を閉じた、ということだそうだ。

ということは築地にもいずれ、石碑が建つのだろう。数寄屋橋、京橋、築地と移転した江戸=東京の市場は、来るべき大震災にそなえ、有明への移転を英断していて本当に良かった。というような内容だろうか。

なお、石碑の下の僅かな地面には、さえない草花がまばらに植えられているが、大根や白菜、人参、葱などを植えるべきではないだろうか。