すき焼きの元祖は、・・

2017-09-08 00:00:54 | あじ
すき焼きの元祖は、横浜で明治元年創業の「太田なわのれん」と言われている。牛肉が角切りになっているのと「なわのれん」と高額で有名だ。かつて二度だけ行ったことがある。なわのれんは、蠅が店内に入らなくする工夫だそうだ。

ところが、それより遥か以前に、牛鍋を囲んだ人たちがいたそうだ。場所は、こちらも神奈川県。小田原城の近くだ。1590年。

まず、その三人だがいずれも戦国大名という豪華版だ。細川忠興(1563-1646)、蒲生氏郷(1556-1595)、そして高山右近(1553-1615)。この3人には共通点があり、まずキリシタン仲間であったこと。そして千利休の弟子だったこと。この三人に前田利長(利家の子)を加えた四人がよくつるんでいたそうだ。

そして、三人が小田原に集まったのは、秀吉の天下統一の最終章である北条攻めで小田原城を包囲した時だ。小田原は背後に箱根があり、前方には海があり天然の要塞なのだが、瀬戸内海の水軍をかき集めて海上封鎖したことと街全体を町人、農民ごと包囲したため食糧が底をつき開城するにいたったのだが、この包囲中に三人が牛鍋を囲んだという記録がある(綿考輯録)。

鍋奉行は高山右近。三人の中で最も年上で、もっとも深くキリスト教を信仰していた。バテレン追放令(1585)の時は他の二人と異なり、財産を秀吉に献上の上、一介の浪人となるが、前田家の客人となり一武将として参戦していた。結局大きな顔をしていたようだ。(1614年のキリシタン国外追放令の時は、マニラに出国した。しかし、到着後すぐに病に倒れ、40日後に現地で亡くなる。牛肉を食べられただろうか。

そして三人鍋を高山右近が準備していると、蒲生氏郷と細川忠興が激しい口論をはじめたらしい。見かねた高山右近が「鍋は中止だ!」と叫ぶと、あわてて口論は終わりになり、それだけ高山右近の牛鍋シェフとしての腕前が高かったのだろう。

さて、この戦いの後、秀吉は蒲生氏郷を会津藩主に抜擢する。伊達政宗の反旗を恐れ重要大名を配置しようとしたのだが、最初は細川忠興に任せるつもりだったが、本人が固辞したため、氏郷に回ってきた。氏郷も同様に、「自信がない」として断ったが、結局押し切られた。徳川家康の江戸行きも小田原包囲中に秀吉から言い渡されたのだから、会津藩主問題もその時に決まったのだろう。となると、忠興と氏郷の言い争いというのは、会津藩譲り合い問題だったのではないだろうか。

そして、蒲生氏郷の名は小田原包囲戦の時、もう一回史実を賑わせている。完全に包囲されたはずの北条側から唯一の反撃があったのだが、城内から出撃してきたのが太田氏房。ちょうど鎧兜も付けずに見回り中だった蒲生氏郷が、部下の鎧兜を拝借し、槍を持って大奮闘し、何人もの敵をブスッ ブスッ ブスッ ブスッと仕留めたそうだ。

鍋で煮たのは、本当に牛肉だったのだろうか。

太田氏房の遠い子孫が「太田なわのれん」の創業者であると、話が丸く収まるが、そうはいかない。「太田」は開店した場所の地名だそうだ。