千秋文庫へ

2017-09-17 00:00:25 | 美術館・博物館・工芸品
都心の博物館で未参の一つが九段にある千秋文庫。秋田の大名である佐竹藩のお宝を家老が預かり、美術館を創って、そこに収めたということになっている。

一方、最近(7月下旬)秋田県を襲った大洪水の際、県知事は宮城県のゴルフ場に行き、救援を待つ県民のことをしばし忘却し、プレー後、宴会に興じ、翌朝遅く帰路につき、対策会議の終了後、県庁に帰着した。佐竹知事は、大名であった佐竹氏の傍流だった。

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その佐竹家の歴史を調べてみると、源氏本流に近い血筋でありながら、1000年にわたって苦闘を続けていた。関東一円で大きくなったり小さくなったりして、やっと常陸の国(茨城)を中心とした大藩になったと思ったら、関ヶ原の戦いに際して挙動不審の点あり、と家康に動かぬ証拠の佐竹=上杉密約文書を突き付けられ、「おそれいりました」ということになり、秋田の小藩に追い出される。もっとも、茨城に入ってきたのは水戸徳川家であるのだから、家康にいっぱい食わされた感が漂う。

仮に密約が本物であれば、上杉家から流出したのだろう。上杉も米沢に追い出される。密約はもう一通あるはずで、佐竹家が秘蔵していたのではないだろうか。

何を密約したかというと、西軍に属していた上杉を攻撃するように家康は佐竹に命じ、自分は関ヶ原に向かったのだ。だから、東西で戦闘が行われるはずだったのに、佐竹と上杉は手を握っていて、本格的な戦争は行わないで戦力温存に努めていた。八百長戦争。要するに関ヶ原で東軍が負けると思っていて、その報を確認してから、佐竹・上杉連合に組みなおして江戸になだれ込もうと思っていたのだろう。残念、作戦失敗。

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ところが、千秋文庫で待っていたのは古文書の展示ではなく、雪舟展。

実は、腑に落ちないのは、雪舟の画にしては、筆が詰まっているような感じがするのだ。水墨画は筆の運びが命だが、どうも勢いがない。しばらくしてキャプションを読んでいてわかったのだが、雪舟本人が書いたのではなく、藩のお抱え絵師が、他藩より借り受けた雪舟画を模写したものらしい。

なぜ、そういうコレクションがあるかというと、まず狩野派のことになる。狩野派は全国からの絵師に江戸で門戸を開いていたのだが、狩野派ブランドを守るために絵師に独創性を禁じ、もっぱら模写を教えていたそうだ。流派保存の一般定跡だ。そして、研修が終わり全国に戻った絵師は、狩野派○○と名乗り、全国で模写を続けていた。

ということで、何となく割り切れない気持ちで建物から出る。建物の外観は8階建てだが、展示エリアは2階まで。3階から8階まではどうなっているのだろう。

なお、この美術館の非常口だが、ドアに巨大な鍵がついている。金庫のようにダイヤル式になっていて、例えば右に三回転して7に合わせて、左に二回転で2に合わせて・・・というような仕組みだ。ビル火事になって逃げなければならない時に、この方法ではほぼ助からないだろう。助からなくても、どうせだめならとダイヤルを回すかもしれない。実際には番号設定してなくてダイヤルは使ってなく、引くだけで開くはずの扉が開かなくなってしまうのかもしれない。