なぜ、明智光秀が織田信長を本能寺で殺したのかは、日本史の中でも解けない大きな謎だ。
もっとも、光秀が討たなくても秀吉が信長を暗殺したかもしれないし、誰も暗殺しなくても徳川家康が最後に勝ち残って、教科書は途中1ページ修正だけになったかもしれない。
そして、本能寺の変(1582年6月2日)の19日後、秀吉は光秀を滅ぼしてしまい、光秀の味方が誰もいなくなってしまったので何もわからないまま事件の真相は闇に包まれた。
最近、本能寺の変の10日後に光秀が、信長に追放された足利義昭の支持者である紀州の豪族土橋重治にあてた書簡が発見された。
文書には懐中用に小さくたたまれた跡が残り、密書だったことがわかる。内容は、「信長を征伐したので、これから足利義昭が京都に戻ってくる。」ということで、だから私の味方になるようにということなのだろう。
この文書が、変の前なら動かぬ証拠だが、変の後では、やや光秀の主張に信憑性が欠けるようにも感じる。紀州の豪族にしても光秀の話の裏が取れるはずもない。
ところで、当時の状況だが、足利義昭は京都を追放された後、毛利家の保護のもとで広島県の鞆に鞆幕府というものを設置していた。
その場所には2014年に行ったことがあるのだが、海辺の小高い丘の上になっている。
また、天皇家と信長も緊張関係になっていて、信長は安土城に天皇を強引に連れて行こうとしていた。天皇家も信長が消え安土城が消滅することを願っていたのだが、財政困窮で信長の集金力に頼っている身ではいかんともしがたい状況だった。
つまり、信長の周りは、敵だらけだったわけだ。
といっても、天皇も毛利家も義昭でさえ、本能寺の事後、知らんぷりしたわけだ。天皇としては、拉致されそうだった信長がいなくなって一安心。さらに安土城が焼失。毛利家は秀吉との戦いで疲弊して、京都進軍の余力なし。家康は不意を打たれ、這う這うの体で三河に辿り着くも、旧武田領内の反乱や北条勢との戦いに追われ、結局、どさくさで大領地を手にする。望外の大成功をおさめ満足。ホンボシかもしれない義昭も毛利が動かなければ、単騎ではいかんともできない。
要するに、計画に精密さや事前準備、戦後体制のビジョンがなかったのだろう。
むしろ、生き返って平壌京に現れてほしいな。
もっとも、光秀が討たなくても秀吉が信長を暗殺したかもしれないし、誰も暗殺しなくても徳川家康が最後に勝ち残って、教科書は途中1ページ修正だけになったかもしれない。
そして、本能寺の変(1582年6月2日)の19日後、秀吉は光秀を滅ぼしてしまい、光秀の味方が誰もいなくなってしまったので何もわからないまま事件の真相は闇に包まれた。
最近、本能寺の変の10日後に光秀が、信長に追放された足利義昭の支持者である紀州の豪族土橋重治にあてた書簡が発見された。
文書には懐中用に小さくたたまれた跡が残り、密書だったことがわかる。内容は、「信長を征伐したので、これから足利義昭が京都に戻ってくる。」ということで、だから私の味方になるようにということなのだろう。
この文書が、変の前なら動かぬ証拠だが、変の後では、やや光秀の主張に信憑性が欠けるようにも感じる。紀州の豪族にしても光秀の話の裏が取れるはずもない。
ところで、当時の状況だが、足利義昭は京都を追放された後、毛利家の保護のもとで広島県の鞆に鞆幕府というものを設置していた。
その場所には2014年に行ったことがあるのだが、海辺の小高い丘の上になっている。
また、天皇家と信長も緊張関係になっていて、信長は安土城に天皇を強引に連れて行こうとしていた。天皇家も信長が消え安土城が消滅することを願っていたのだが、財政困窮で信長の集金力に頼っている身ではいかんともしがたい状況だった。
つまり、信長の周りは、敵だらけだったわけだ。
といっても、天皇も毛利家も義昭でさえ、本能寺の事後、知らんぷりしたわけだ。天皇としては、拉致されそうだった信長がいなくなって一安心。さらに安土城が焼失。毛利家は秀吉との戦いで疲弊して、京都進軍の余力なし。家康は不意を打たれ、這う這うの体で三河に辿り着くも、旧武田領内の反乱や北条勢との戦いに追われ、結局、どさくさで大領地を手にする。望外の大成功をおさめ満足。ホンボシかもしれない義昭も毛利が動かなければ、単騎ではいかんともできない。
要するに、計画に精密さや事前準備、戦後体制のビジョンがなかったのだろう。
むしろ、生き返って平壌京に現れてほしいな。