京都御所の右近の橘を見て愕然

2017-06-15 00:00:22 | たび
京都御所が今年になって、いつでも一般公開されることになった。しかも1日4回は職員の方による無料ガイド付きである。かなり暑い日だったのだが、午後の見学ツアーに参加。一緒に回った知人は、体力の限界で途中離脱。

まず、京都の事はよく知らなかったのだが、数年前に東寺に行った時に妙な疑問を感じていた。京都の入口にある羅生門の東に東寺、西に西寺(現存しない)があり朱雀通りを北に進めば御所のはずなのに、東寺はかなり西の方にあって、さらに西に羅生門址がある。北に行ったって御所と場所が離れている。御所じゃなく誤所ではないか。

今回、聞いた話では、平安時代の御所は確かに今の御所の西南西にあったということで、東寺は動かず御所が動いたということだそうだ。位置が変わると、源平時代の歴史上のできごとなども意味が変わってくる。今の位置になったのは1331年。後醍醐天皇(1回目)が失脚し、光厳天皇の代である(しかし、この天皇は歴代にカウントされないことになっている)。

そして地下鉄今出川駅から5分のところに御所に入る門がある。清所門といって、身分の低い人の入口だ。私にお似合いだ。さらに御所というのは二重構造になっていて、大きな御所の中に、さらに御所というエリアがある。ここに入るのが解禁になったわけだ。その大きな御所エリアの中には、この正式な御所のほかに、大宮御所とか仙洞御所とかある。そういうその他の御所は、主として皇后さまや、皇后ではない女御のための建物だったようだ。単に女御といっても古い時代は、天皇のベッドパートナーで、その中で男子を産んだり天皇の寵愛を得たものが皇后になったようだ。

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仙洞御所は生前退位した上皇の住まいに使われたりもしていた。

古くは、江戸幕府の祖である徳川家康は、天皇の退位を画策し、先に隠居用の御殿を作ってから天皇を退位させようとしていた。なかなかの策士だが、天皇制を廃止にはしなかった。織田信長は安土城の中に天皇の屋敷を作って、京都から拉致しようとしていたのだから、こちらも相当だ。

そして、内側の御所の方だが宜秋門という身分の高い人の門を内側から確認するとやはり立派だ。こちらは、今でも国賓がいらっしゃる時には開かれるそうだ。

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そして、現代の京都御所の中心的建物が、紫宸殿である。平安時代には大極殿が使われてたが壊れてしまい、さらに鎌倉時代には紫宸殿も焼失。なにしろ小さな建物を作っても儀式の時には困っていたのだが、ついに幕末になって大きな紫宸殿が完成した。1855年。孝明天皇の代であり攘夷論が吹き荒れていた時だ。そして孝明天皇が謎の急死をしたあと、孝明天皇の女御だった中山慶子の子供が、対外的には皇后の子ということになり明治天皇ということになった。そして明治時代になると、天皇は江戸(東京)に行ってしまったわけだ。

つまり、十数年しか公務には使われなかった建物ということになる。その後も大正天皇、昭和天皇も即位の礼はここで行われたそうだ。

そして、紫宸殿をこちらから見て右側には桜が植えられていて、左側には橘(みかん)が植えられている。左近の桜、右近の桜とは逆ではないかと思っていたら、ガイドの方が、「右左は、殿中の天皇から見たときの方向なので、庶民の目線とは逆だ」ということが説明された。

実は、つい最近、横浜の自宅のエントランスロードの右側の木が枯れていた(昨年、蜂退治をしたときに、巣のあった場所全部に薬を噴射して枯れてしまった)。このため、右側だから橘=ミカン類と勝手に解釈して植えてしまったわけだ。もっとも私は天皇ではないので、左右にこだわる必要もないと思うし、庭に桜なんか植えたら、十年後には大変なことになってしまうだろう。

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紫宸殿を大きく回って裏側には小御所がある。小御所といっても大きい。ちょうど蹴鞠の競技スペースがあり、説明を聞けば肩や膝を使ってはいけないということ。球は楕円球らしい。忍耐の重要な競技なのだろう。当時も松木とか本田のような蹴鞠評論家がいたのだろうか。

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